「台湾アイデンティティ」を分析してみる。”台湾独立”ってどういう事?
この記事では、台湾国内の歴史に言及しながら台湾アイデンティティを分析し
「台湾独立」について考えます。
日中台の外交史や国際関係については以下の記事を参考にしてみてください。
今回の記事でも以下の定義を採用します。
「シナ」は差別的な意味ではなく。現行の中華人民共和国の主権が及ぶ範囲の「地名」
「台湾」は「中華民国台湾」の主権範囲の「地名」
”中国”は1911年以降の領域国民国家として「シナ大陸」で始まった近代国家
シナ大陸の「中華民国」と「中華人民共和国」はおなじ中国だが、後者を「新中国」とする。
「中華圏」を、主に漢字を使い「シナ大陸発祥の文明」を共有している範囲の事であり、 「中華人民共和国」・「中華民国台湾」・「中華人民共和国特別行政区香港」・「中華人民共和国特別行政区澳門」を包括する概念とする。
台湾の歴史 台湾の民族とは?
まずは台湾の歴史をたどりながら、台湾にいる”民族”について言及します。初めて台湾にアクセスした西欧列強はスペインです。その後にオランダが入ってきます。オランダもゼーランディア城という要塞を作ったりしました。これが16世紀から17世紀の話です。それ以前にも台湾には原住民と呼ばれる方々が住んでいました。この方々達は、独自の言葉を持ち、漢文化や大和文化とも全く異なる風習を持っています。
台湾原住民の一つ、セデック族をめぐる物語は映画にもなりました。
シナ大陸で明朝が崩壊(1644)するタイミングで、本格的に台湾にも漢民族や漢系文化が入ってきます。そうして入ってきた漢民族は「清を倒して明を復活させよう」と試みたモノたちもいます。その後、鄭成功が「反清復明運動」を率いオランダを追い出します。台湾はこのタイミングで初めて本格的に漢民族政権によって統治されました。しかし、その後すぐに清朝によって鄭氏台湾は討伐され、台湾は清朝によって統治されます。
日本統治時代
台湾が日本に統治され、皇民化政策が敷かれます。この時点で独自のアイデンティティを持っていた諸民族は、日本国民としてのアイデンティティを強要される事になります。反発する人も勿論いましたがや何とか上手くやっていこうとする人もいました。上にあげたセッデク・バレの小説版にはそういった描写があります。また統治する日本人の中にも、諸民族にしっかりと向き合っていく人もいれば、台湾の諸民族を纏めて見下す人もいました。
戦時中は台湾人も日本兵として戦争も参加しました。そして、その魂は靖国神社に祀られたりもします。
犬が去って豚が来た
日本が敗戦し、台湾が中華民国に返され、内戦で中華民国が負け台湾にやってきます。問題はここから起きます。中華民国に返還されるまで台湾人は「日本人」としての教育を受けていました。さらに、内戦で敗北してやってきた国民党は腐敗し、現地の住民のアイデンティティなどを全く気にかけない統治を敷きました。
よって、「日本人は煩かったがインフラや近代教育をしてくれた。しかし、国民党は腐敗し役にも立たず煩いだけだ。犬(日本)が去って豚(国民党)がきた」と言われます。
ここで本省人(国民党以前から現地に住んでいた人)と外省人という違いが生まれます。
この二者は流血を伴う衝突事件も起こしています。その代表例が「2・28事件」です。
因みにこの事件の犠牲者には沖縄人も含まれています。
国民党の圧政よりも日本の方がマシだった。そういった感情が本省人の打倒国民党感情に繋がり、日本のナショナリストや保守派に合流していきます。そうした人たちが「中華民国の屋号を外し台湾は台湾である!台湾共和国を建国する」という考えに至ったのが、台湾独立派です。
その後、新中国での文革発動とベトナム戦争などの反米機運などのタイミングが重なり、伝統的な中華文化や漢文化に価値を見出し、国民党を中心にそれをアイデンティティとしようとする思想潮流も一時期はありました。そうした経緯もあって、中華民国台湾ではシナ本土よりも、中華文化の礼儀や宗教的な価値観が色濃く残ったケースもあります。
時代が移り変わり、本省人で国民党に所属していた李登輝氏の総統時代に、台湾では一気に民主化が進み、同時に「台湾アイデンティティ」を強化する動きがありました。李登輝氏はあくまで「中華民国台湾」と「新中国」は国家として別であるというスタンスを保ちながら、シナ大陸発祥の礼儀や文明も尊重して、国を作っていきます。
台湾はその後、順調に民主化を推進し、「アジアの小四龍」として高度経済成長を遂げます。それと同時に国内の様々な問題や対立を解消しながら、そこに住む人たちは独自の「台湾アイデンティティ」を作り上げていきます。
今更、他人に聞けない「台湾」って何??
本稿に入る前に、断っておくべき事があります。
本稿で出てくる「シナ」には差別的なニュアンスはありません。あくまで現行の中華人民共和国の主権が及ぶ範囲の「地名」として使います。
本稿の「台湾」は「中華民国台湾」の主権範囲の「地名」です。
”中国”はあくまで1911年以降の領域国民国家として「シナ大陸」で始まった近代国家です
シナ大陸の「中華民国」と「中華人民共和国」はおなじ中国ですが、後者を中国国内の慣習に従い「新中国」とします。
「中華圏」を、主に漢字を使い「シナ大陸発祥の文明」を共有している範囲の事であり、 「中華人民共和国」・「中華民国台湾」・「中華人民共和国特別行政区香港」・「中華人民共和国特別行政区澳門」を包括する概念とします。
はじめに
民進党議員の蓮舫さんに二重国籍疑惑がある事が報じられました。
この問題ですが、明らかに「新中国」と「中華民国台湾」と「日本国」をめぐる歴史と国際関係が関わっています。そこで、本稿では今更聞けない、新中国と中華民国台湾に関する問題について、僕なりに説明します。
全ての始まりは「台湾の植民地化」
事の始まりは、清朝の統治範囲だった台湾が1895年の下関条約で日本に割譲され、大日本帝国の主権領域に組み込まれた事から始まります。台湾が日本の主権領域になったことで、そこに住んでいた人々は日本国民になり、日本国民としての自我意識を備えるような教育が施されます。皇民化政策という言葉で説明されますね。そうして、台湾は日本の敗戦の1945年まで日本の一地域でした。
スミソニアン航空博物館に展示されていたポスター
一方、その間にシナで起きていた事を確認しましょう。シナ大陸を支配していた清朝ですが、アヘン戦争をきっかけに香港を割譲され、西欧列強に分割植民地支配されます。そんな状況を変えようと、中国国民党(1894年にシナで結党、1919年に現在の国民党となる)や中国共産党(1921年)が結党されます。そんな中、孫文が立ち上がり、国民党を主に率いて革命を成功させます。1911年に革命が起こり、清朝が倒れ、中華民国が1912年に建国され、シナ大陸に中国が生まれます。
しかし、その国家運営は安定せず、各地に軍閥が割拠し、さらには西欧列強や日本と闘わなければなりませんでした。なので、国民党と共産党は一致団結して、第二次世界大戦を戦い抜き1945年に終戦を迎えます。
ここまではまだ、台湾は日本の領土です。問題はココから終戦直後からこじれ始めます。
終わらない戦争ー”チュウゴク”の分裂ー
1945年に一応は戦争が終わりました。そして、戦争の終結に伴い、領土を戦前の状態に戻す作業が始まります。サンフランシスコ平和条約、日華平和条約で、台湾は日本のモノではなくなり、中国に返されます。現時点の中国はまだ「中華民国」です。
しかし、中国では、国民党と共産党の内戦が終戦直後から始まります。そして1949年に中華人民共和国が建国され、新中国になります。そして内戦に負けた国民党は、台湾に逃げ、中華民国を台湾で続ける事になります。これが、今にまで続く
終戦後、世界は冷戦構造になっていきます。
こうした情勢の中で、新中国と中華民国台湾はお互いを以下のように批判し合います。
中華人民共和国は国ではく、共産主義のゴロツキが支配する集団の名前である。
中華民国台湾こそが正統な中国である。
台湾は国民党に不当に占拠されている、中華民国台湾は西側諸国が支援している武装集団で、中国を分裂させようとしている。
日本は自由主義陣営の国なので、中華民国台湾を正統な中国として扱い、新中国を国家として扱っていませんでした。しかし、冷戦の終結で、中華人民共和国が国家承認され日本と国交を結ぶ事になり、中華民国台湾は国家として扱われなくなりました。外務省の公式HPでも、中華民国台湾は”地域”のカテゴリーになっています。
今回は主に、日中台の外交関係や歴史に焦点を当てました。更に台湾をめぐる問題は、台湾内部のアイデンティティの多様性にもよります。それがまた事態を複雑化させています。
台湾を理解する書籍は以下のようなものがあります。参考にしてみてください。
台湾68年世代、戒厳令下の青春――釣魚台運動から学園闘争、台湾民主化の原点へ
- 作者: 鄭鴻生,丸川哲史
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 単行本
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この本の中には元台湾総統、李登輝氏のインタビューが収録されており、インタビュアーと李登輝氏が双方とも台湾を中国と呼称している。
中国とアフリカ 「ネオ植民地主義」か「非西欧によるアフリカ独立の支援」か (その2)
(その1)では、主に中華人民共和国建国直後から改革開放の直前期までの「中国とアフリカ関係」をみました。
今回は、改革開放後、90年代の末から2000年代の「中国とアフリカの関係」を追っていきます。
新時代の幕開け
朱鎔基首相と江沢民国家主席は95年と96年にアフリカを訪問し、政府の新しいアジェンンダを明らかにしました。アフリカ連合本部で江沢民は「中国・アフリカ協力フォーラム」の創設を提案し、6年間の準備期間を経て2006年に北京で発足しました。その後、このフォーラムでは、アフリカへの援助、アフリカからの留学生の受け入れ等々が提唱され、一部は着実に実行され、中国とアフリカの関係はとても良好になります。
また、2006年、胡錦濤国家主席もアフリカ諸国を歴訪します。温家宝首相はこのとき、中国・アフリカ間の貿易を2010年までに倍増させると表明しました。ほかにも中国は、3年間のアフリカ支援倍増、中国企業のアフリカ投資促進を目的とする50億ドル規模の「中国アフリカ開発基金」を設立。後発発展途上国から中国への無関税品目を190から440以上へ拡大すること、今後3年間で借款30億ドルとバイヤーズ・クレジット20億ドルを給与すること、05年以前に返済期限を迎えた無利子債務の帳消し、今後3年間でアフリカ人専門家1万5000人に研修を行うこと、中国人農業専門家100人のアフリカ派遣、30の病院建設、100の学校建設、中国政府奨学金アフリカ人学生枠の4000名への倍増を約束しました。
会議中にはエジプトのアルミ工場建設、ザンビアの銅開発プロジェクト、南アフリカの鉱山開発をはじめとする大規模契約が結ばれました。その後これらの目標は実現します。
貿易も、95年に50億ドル未満だったのが、2000年~2008年の間に10億6000万から1068億4000万ドルへと10倍に拡大し2010年には1270億ドルに達します。貿易拡大は主にアフリカの潤沢な原油や鉱物の備蓄によります。石油企業の輸出が、アフリカの対中輸出の実に8割を占めます(アンゴラだけで中国の原油輸入の37%をまかなっている)。サハラ以南のアフリカでは2005年から2010年の間に中国の対外投資先の13.8%を占め、欧米を上回りました。2005年~07年の3年間、世界銀行の対アフリカ支援・融資は174億ドルにのぼりましたが、中国輸出入銀行の融資は160億ドル近いと推定されます。
貿易が増えれば、自ずと人の移動も活発化し、 アフリカ在住の人の割合も急増しています。2001年には推定13万7000人だったが、07年には40万人以上に増えました。しかし、実際にはこの数を大きく上回るといわれています。現在、アフリカ在住の中国人は50万人以上と言われています。2011年のリビア内戦に際し、中国政府がリビアに3万5000人の自国民がいる事を明らかにしました。
現在進行中の中国人アフリカ移民は19世紀後半や1950~60のモノとは大きく異なります。特徴としてえ移住者の出身地が中国全土に行きわたり、個人の背景も様々です。中国の不自由さに嘆き、アフリカでのチャンスを夢見て、アフリカで新しいビジネスを立ち上げ、一旗揚げようとしている人も多数います。そして、それが口コミなどで広がり、また人を呼びます※。そのため多くが定住の意思を持っている事が挙げられます。ナミビアのオシカンゴでは1999年に初の中国系商店がオープンし、その数は2004年には22店、06年には75店にのぼりました。
支援・平和維持活動
中国は開発援助の約束も着実に実行しています。マラリア対策や公共衛生分野、高等教育、農業支援などにおいては、称賛できます。また、アフリカでは900件の対外援助を完了し、鉄道2233キロを敷設。高速道路3391キロを整備し、42の競技場と54の病院を建設し、中国の医療保健従事者1万8000人や技術者35万人を派遣し、様々な分野のアフリカ人3万人強を訓練し、公的資金からアフリカの学生に3万4000件の奨学金を提供してきました。これは「豊かになるには、まず道路を作れ」という中国の開放政策直後の考えをそのままアフリカに応用したと考えられます。因みにこの言葉には続きがあり「子供を産む代わりに樹を植えろ」と続きます。
他にもアフリカにおける中国の存在を示すものとして、PKO参加人数の増加があります。2002年には中国人PKO要員は全世界で110名しかいませんでしたが、06年には1271名に増えました。その内、80%がアフリカへの派遣です。2009年以降は、ソマリア対策でも重要な役割を果たすようになりました。全体の拠出金も増えています。
中国のアフリカへの貢献
これまでの所、中国がアフリカにもたらした、プラス効果は非常に大きいです。
第一に、アフリカ諸国の多くが資源輸出国であり、中国は、その資源の需要と価格を引き上げた点に大きく貢献しています。1990年~2001年のサハラ以南アフリカ諸国のGDP伸び率は平均で2,6%だった。これに対して2001年から04年は4.4%、05年から06年は5%から6%、07年は7%と上昇を続け、10年は4.7%を記録しました。1998年以来の世界的消費拡大は中国需要によるモノが大きいため、アフリカ諸国GDP拡大への中国への貢献はやはり大きく、無視できません。加えて低価格の中国製のアパレルや電化製品などの製品が手に入りやすくなったため、アフリカの一般消費者の生活環境の改善にも一定の影響をもたらしました。
第二に、中国という新たな貿易・援助・投資相手国を得て、アフリカ諸国に競争環境が生まれ、欧米諸国やIMF・世界銀行に頼るばかりではなくなりました。2007年、アンゴラはIMFとの融資協議を取りやめ、中国の融資を受け入れました。
第三に中国の援助は欧米諸国・機関の援助と比べて付帯条件が少ないです。IMF・世界銀行は欧米流のイデオロギーにもとづいて貿易自由化、民営化、民主化、人権問題の解消、小さな政府を要求します。しかし、中国は良くも悪くもこれらの条件を課さずに、アフリカを支援します。2006年4月、ナイジェリアの国会演説で胡錦濤は「中国は、アフリカ諸国が独立と主権を守り、各国の国情に応じて発展経路を選択するという願いを断固として支持する」と述べました。
今回は、2000年代前半の中国のアフリカへの関与を主に引用しました。次回は、中国のアフリカ関与による様々なトラブルやマイナス面を、中国人のミクロな視点も交えて纏めてみたいと思います。
今回、引用したのは以下の書籍です。
中国グローバル化の深層 「未完の大国」が世界を変える (朝日選書)
- 作者: デイビッド・シャンボー,加藤祐子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2015/06/10
- メディア: 単行本
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P149~P150 P269
中国が世界をリードするとき・下: 西洋世界の終焉と新たなグローバル秩序の始まり
- 作者: マーティン・ジェイクス,松下幸子
- 出版社/メーカー: エヌティティ出版
- 発売日: 2014/03/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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P79~94
※下記からは一部参考にしました
中国のPKOに関しては以下でも参考にできます。
外交 Vol. 10 | 外交WEB に掲載されている文章が以下から読めます。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/gaikou/vol10/pdfs/gaikou_vol10_10.pdf
日本の環境問題とサブカルチャー 日本的环境问题和日本次文化
日本的环境污染问题的历史
环境问题不仅是发展中国家,也是欧美日本等全球普遍的问题。因此,全人类对环境问题应该互相合作加以解决。印度,巴西,东南亚等新兴国家也不例外。当然中国国内的问题也是如此。以PM2.5为代表的空气污染、水质污染、以及土壤污染等各种各样的问题。最近,引起很大反响的、柴静女士拍摄的纪录片【穹顶之下 Under the Dorm】,就是针对中国国内的空气污染问题发出的警告。
以前日本的环境污染问题也曾相当严重。最早的日本环境污染问题是因明治维新的近代工业化导致的【足尾铜矿矿毒事件】。【足尾铜矿矿毒事件】是在枥木县日光市足尾地区发生的环境污染事件。矿山周围的空气和土壤河流都被重金属污染。居民的健康受到极大的损害。当时日本政府的主要目标是【富国强兵】,没有环保意识,根本不管居民的健康。
战后,日本继续大力推进现代工业化,经济进入高度成长期。再次引发环境污染的问题。当时日本的环境污染问题也相当严重,发生多起公害病。如:熊本县的水俣病、富山县的疼疼病、由于空气污染造成的川崎哮喘、石棉引起矽肺和间质恶性肿瘤、二恶英污染等。环境污染,公害事件的问题在以前的日本也不胜枚举。
开始重视环境污染问题的日本政府,开始实施多种环保对策。投资新技术、补助人们买节能家电、提倡少用空调的新生活方式。在日本神奈川县横滨市,政府提出【减少垃圾,提高回收率】的标语,启动多种鼓励政策,结果大获成功。渐渐地,日本的环保社会潮流变成了一般人民的习惯和常识。
日本次文化里的环境问题
日本的电视、各种娱乐和次文化一方面受到环保意识社会潮流影响,反应人们对社会问题的关注和批判。另一方面,这样的娱乐文化又反过来提高了日本大众的环保意识。
今年在日本复活的怪兽之王【哥斯拉】又引起了热议。这部系列电影对日本战后社会的方方面面进行了深刻的剖析和讽刺。1954年拍摄的第一部【哥斯拉】批判了美国的氢弹试验,表现冷战时期日本社会对可能发生的战争的恐惧心态。1974年上映的【哥斯拉对黑多拉】,这一时期是日本的公害事件严重的时期。黑多拉是工厂排放的有害废弃物变成的怪兽。所以这部电影可以说表达了大自然对人类的反击。
这一时期的动画片也反应了环保的社会潮流。【机动战士高达OO】的背景是在未来世界,由于化工燃料的枯竭,人类开始寻找全新形式的能源。国家联合体开发了由轨道式升降梯组成的巨型太阳能发电系统。然而,能够分享这一能源的,只有国家联合体的一部分大国及其同盟国。与此相对立的依靠化工燃料的国家反对太阳能发电系统的开发和建设。【高达OO】的世界就是我们现实世界的缩影。
在电视节目【铁腕DASH】里面,通过杰尼斯歌星组合TOKIO的活动,学习大自然,废物再利用。这个节目里有【DASH海岸】栏目。内容是清扫东京湾一角的淤泥,挑战人造海滩的行动。TOKIO因此项策划受到了日本国土交通省的表彰。
环境污染问题是全球各国都有责任。大家用理性的态度面对这些问题。
下面是在【铁腕DASH】里介绍的天然材料农药。请试一试吧。
青蒿 一把, 生姜 三块, 辣椒 十个
咖啡渣 一把, 醋 500cc 蒸馏酒 1L 大蒜 三个
韭菜 ·100克 茶叶 够沏两壶茶的分量, 牛奶 500cc
先把,辣椒十个,大蒜 三个,韭菜100克放进捣蒜钵里、好好捣碎。
再放一把咖啡渣,沏两壶茶的茶叶,三块姜,一把青蒿,继续捣碎。
然后准备6L煮开的热水。放进捣碎了的原材料,继续煮三十分钟后,加入蒸馏酒 1L,醋500cc,牛奶500cc,继续煮开。
煮开后关火,待药渣沉淀下来后,用粗布过滤,晾凉后装入喷雾器即可。
中国メディアの現場は何を伝えようとしているか: 女性キャスターの苦悩と挑戦
- 作者: 柴静,鈴木将久,河村昌子,杉村安幾子
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2014/04/26
- メディア: 単行本
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在这也可以看。
しょうけい館。
8月15日に行ってきました
ここ数年は8月15日に、千鳥ヶ淵や靖国、しょうけい館を回る事を恒例行事にしています。ニュースになっている靖国神社、国立の追悼施設である千鳥ヶ淵は、とても有名で、今更ここで色々と説明する必要はないと思います。ここでは「しょうけい館」について纏めていきます。
「しょうけい館 」とは?
博物館へは九段下の駅、6番出口を降りて、写真の出口から出ます。
出てすぐの細い路地の奥を行くと、到着します。
取りあえず昭和館側の歩道をまっすぐ行くと着けます。行く場合は取りあえず、「昭和館」を目指してみてください。
下はホームページです。
「しょうけい館」は傷痍(しょうい)軍人の方々が経験した苦労を継承する博物館です。傷痍(しょうい)軍人とは、戦争で体の一部を失ってしまった軍人の事です。漫画家の水木しげるさんなんかも傷痍軍人です。
博物館では当時の実際の医療機器や、軍服。各種資料が展示されています。他にも、特別展示などで、日本の義手や義足技術の進化や。傷痍軍人に関する様々な事が知られるほぼ唯一の博物館です。
「しょうけい館」の歴史認識
この博物館の視点は「傷痍軍人の歴史」です。なので、具体的な日本軍の加害の事件も無ければ、アメリカ軍による空爆の被害などもあまりありません。しかし、展示からは「軍人の経験」を”全て”伝えようとする姿勢を感じました。
戦後、軍人恩給が廃止され、路頭に迷った苦労。
中国戦線で中国人漁民に助けられた軍人の経験。
最前線の戦線でハンセン病を発症し帰国後も辛酸を舐めきった軍人の経験。
そのほかにも様々な人の経験が知れます。それらの展示からは、侵略戦争の否定のニュアンスなどは感じられません。
色々な解釈はありますが、8月15日以降も戦闘は続いていました。故に、諸外国では9月に終戦記念日として祝う所が多くあります。なので、9月の内にお近くに立ち寄った際には、千鳥ヶ淵の引揚者の慰霊碑とこちらの博物館に行ってみては如何でしょうか?
参考
3.陸軍病院臨時箱根療養所の開設 / |箱根のディープな情報 箱ペディア|箱根の温泉・旅館・ホテル 公式ガイド「箱ぴた」
中国とアフリカ 「ネオ植民地主義」か「非西欧によるアフリカ独立の支援」か (その1)
はじめに
もうすぐTICAD(Tokyo International Conference on African Development)がケニアで開かれます。この会議は日本政府主導で、アフリカの開発援助等について話し合う会議です。
日本の技術等がアフリカの発展に寄与するのは大変喜ばしい事です。しかし、ここでもやはり、中国の存在がチラついてしまいます。日本のテレビでも過去に、アフリカ市場を争う、日本と中国の姿を取材しています。
このVTRの中では、中国製の粗悪な偽物はアフリカにも流れ、日本や外国企業の損失になっている事が伝えられています。アフリカへの援助や関与に、日本企業の投資環境を整備し日本経済の成長エンジンとして働いてもらう目的があるのは疑いは無いでしょう。そして、そこで競争する中国の存在は目障りのハズです。
本稿では、中国とアフリカ大陸の関係について、回数を分けて見ていきます。第一回目の本稿では、中国とアフリカの関係について、歴史的経緯を拾います。
中国のアフリカへの進出を語る時に日本のマスコミはこんな枕詞を使う事があります。「昨今の経済成長と膨張する中間層のための資源確保を目的にアフリカに近づく」
確かに間違ってはいません。しかし、「昨今の経済成長による進出」この部分に釣られると、中国のアフリカ進出のイメージや、中国政府が持っている世界観のイメージや正体が掴めません。では本題を始めましょう。
中国・アフリカ関係史
中国とアフリカの接触には意外と歴史があります。陶器と絹の交易記録が残る宋朝。15世紀の鄭和の遠征。また17世紀にはオランダが黒人奴隷を台湾に連れてきています。そして、一部は大陸にも渡っているようです。その後の帝国主義の時代は、逆に、欧州植民地で中国人労働者を雇い、アフリカの鉱山や建設現場に送り込む事例もあったようです。
時代を人民共和国成立後までに遡りましょう。中国政府は主に6つの形でアフリカに関わっていきました。
国家主権承認と国連加盟をめぐり台湾と外交のうえでの闘い。
共産主義革命や毛沢東思想のアフリカ大陸全土や第三世界への拡散。
対立する米ソ超大国の「中間地帯」と見ていた。
1960年以降、世界を舞台にした中ソ競争の一部として、中国政府はアフリカ諸国の支持をめぐり激しくソ連と競いあった。
アフリカは中国政府の外交や対外援助の方針を試す試験場。
1955年に開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)でアメリカにもソ連にも属さない、植民地となったアフリカやアジアの国々と結びつき反帝国主義の活動を始めます。しかし、この会議そのものはすぐに形骸化しほぼ無効になります。1960年代に入ると、第三世界のアジアやアフリカ、ラテンアメリカの革命勢力を支援し、イデオロギー面での指導権獲得に一段と力を注ぎます。周恩来もアフリカ諸国を歴訪します。余談になりますが、この頃からアメリカ国内の黒人の闘争を支持する動きもありました。また、毛沢東の『中間地帯理論』もこの頃に出てきます。これは、アジアやアフリカの国々の反植民地運動等を支援しながら、ソ連勢力にもアメリカ勢力にも入らないように妨害等々を行いながら、勢力の中間地帯や緩衝地帯として働いてもらうという理論です。また林彪も65年に『人民戦争の勝利万歳!』という論文の中で、貧しいアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの貧民の”勃興しつつある勢力”を”世界の農村”になぞらえ、西欧米諸国を”世界の都市”になぞらえました。そして、中国による干渉には言及せず、あくまで”自力更生”で、それらの”農村”の国家が”都市”を包囲して戦う事としています。このテーゼは、毛沢東思想の一部に組み込まれます。
建国直後から中国はすでにアフリカやラテンアメリカなどを視野にいれた世界戦略を練り、革命家や政治家などと関係を築きます。
ここにアフリカ側の都合も加えておきましょう。1960年代というと「アフリカの年」に当たります。1950年代末期、シャルル・ドゴール大統領が、フランスのアフリカ植民地のアルジェリア政策に失敗し、フランス共同体のアフリカ植民地が離脱します。それがきっかけでアフリカ諸国の反植民地運動が加速します。そして1960年代から続々とアフリカ諸国は欧米の植民地から独立していきます。
こうしたタイミングも相まって、中国はアフリカに関与していきます。恐ろしい事に、1960年代から毛沢東の死まで、中国国内の混乱に関わらず、中国はアフリカに関与し続けます。
下記の表では、1960年代に中国では「自然災害」で数千万人の餓死者が出ている時でも、ギニアやアルバニア(アフリカではない)に1万、1万5千tの米や麦を送ったり、70年代はタンザニアに鉄道を敷設したりしています。
中国とアフリカの関係は意外と深いです。しかし、改革開放を経て、関わり方も変わってきます。次回は改革開放以降について見ていきましょう。
以下を引用しました。
中国グローバル化の深層 「未完の大国」が世界を変える (朝日選書)
- 作者: デイビッド・シャンボー,加藤祐子
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
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P148
P347 P349 P384~385
「ゴジラ」に日中関係・日韓関係、大東亜戦争の文脈を入れることは可能か?
『シン・ゴジラ』を見ました
『シン・ゴジラ』見ました。傑作です!54年のオリジナルゴジラを見事に現代に透写した作品であり、54年のゴジラに衝撃を受けたであろう当時の日本人は、こういう感覚でゴジラに対峙したんだなと思わせてくれます。
この「ゴジラ」の存在を語る際にやはり「原水爆」「日米関係」「戦争の記憶」といった知識は欠かせません。一番古いゴジラが公開された「1954年」というタイミングは、ビキニ水爆・第五福竜丸・朝鮮戦争・警察予備隊、と、冷戦体制の構築が急速に進んでいったタイミングです。また、第二次世界大戦の記憶もまだ新鮮で、映画の中でも普通の人が、普通のトーンで「原爆から生き残ったのに放射能の怪物かい?嫌だね?」という事を言います。
ゴジラは
戦争の記憶の克服と新しい戦争が迫ってくる当時の日本人の不安を上手く表現している作品と言えます。
今作の「シン・ゴジラ」も日米関係・原水爆がキーワードになってきます。しかし、僕はゴジラ映画にはなんとか「日中戦争・満州」といった東アジア情勢の文脈を投射して欲しいのです。
なぜ、『ゴジラ』に日中戦争や満州なのか?それは、初代『ゴジラ』の主演、宝田 明さんのルーツに理由があります。宝田 明さんは当時日本の植民地であった朝鮮半島に生まれ、満州に移り住み、終戦の間際、ソ連の侵攻から命からがら逃れた経験の持ち主です。また、劇中で芹沢博士を演じた平田 昭彦さんも朝鮮半島出身です。それに特撮を担当した円谷英二も様々な戦意高揚のための映画に関わっています。もちろん、その中には日中戦争に関係するモノもあります。少々、本題とは逸れますが、満州で様々なプロパガンダに関わった人材が戦後の日本のメディア産業を支えました。
こう思うと、『ゴジラ』には満州から命からがら引き上げた経験や記憶・対峙じたソ連兵の恐怖・異民族と共に過ごした経験・ルーツの喪失といったテーマを含んでいてもよいのではないか?と思うのです。
因みに、ゴジラと中国を結びつけるこんな活動をしている方がいます。
最初に結論から言ってしまうと、私は『ゴジラ』を日中関係に結び付けて論じるのは可能であり、劇中でもそれを彷彿とさせるモノを入れる事も出来ると思います。例えば、ゴジラから避難するシーンに川崎の桜本などを映して外国人などを入れ、右往左往させたりする事で何とかそれを想像させる事をしてもいいと思います。