中国の対外援助のルーツ
そもそも「対外援助」とは?
このブログでは過去にも「中国のアフリカ支援」「中国の対外援助」といったテーマの記事を書いてきましたが、そもそも「対外援助」という概念について確認していない事に気付いてしまいました。そこでまずは「対外援助」というモノがどういう風に発生していったかを簡単に確認したいと思います。
「対外援助」は非常に”ウチ”的な理由から
形成されていった
「対外援助」はその発生と形成が異なるルートが何本か存在しています。以下はその代表的なモデルです。
フランスとイギリスのポスト植民地政策としての対外援助
アメリカの第二次世界大戦時の連合国への戦争協力および戦後復興・反共産主義政策
植民地が解体される過程で、国内の「植民地省」の人員が新設の「技術協力省」に移りその予算が「対外援助」になりました。しかし、植民地が解体されたからといって即座に人員を引きあげる事なども出来なかったので、実をいうと最初期の「対外援助」のうちの「技術協力予算」は旧植民地官吏に対する給与の支払いが主だったようです。
アメリカの「対外援助」も非常にドメスティックな理由から形成されていきました。そのルーツは武器貸与法にあるとされます。この法律は武器以外の戦争遂行に必要な物資を総合的に援助するものでした。その後、終戦を迎えそれを継続していくか?が議論になりました。それがトルーマンドクトリンとなりマーシャルプランへと移っていきます。アメリカにはもう一つ、1954年に制定された農業貿易開発援助法という法律が「対外援助」のルーツとして存在しています。名称からも察せられると思いますが、この法律は「アメリカ産農産物の輸出市場の開拓と拡大」が目的にありました。
「対外援助」や「開発援助」、「国際協力」といったモノの始まりは人権や自由を理念に掲げる欧米ですら非常にドメスティックなモノだったのです!では中国はどうか?というと当然中国も中国の国益、ドメスティックな事情から始まっています。
中国の対外援助のルーツ
では中国の対外援助はいったいどこから始まっているか?といいますとその始まりは建国直後の50年代から言及する事ができます。中国の最初期の対外援助は1952年に成立した中国対外貿易部が担っていました。またこの時期は朝鮮戦争が勃発し中国も参加します。1950年代の中国の援助の主なレシピエントは北朝鮮の他にもパキスタン、ベトナム、カンボジア、モンゴル、ハンガリー、東ドイツ、アルバニア、エジプト、アルジェリア、キューバなどがあり、中国は援助を行っています。これらの国名と国の位置から、中国の最初期の対外援助は
地政学的な観点・安全保障のための軍事支援
が主な目的であった事がうかがえます。アフリカにもこの時点で援助は開始しているのですが、中国の対アフリカ援助が本格化し成果をあげるのはもう少し後の事なので、ここでは割愛します。
※主な目的で上の二点をあげましたが人道支援も行っています。日本も受けています
中国の対外援助の体系化と性質の変化
1955年、インドネシアでバンドン会議が開催されます。ここでアジア・アフリカの被植民地国家どうしの連帯が謳われます。この事は中国の対外援助に大きな影響を与えます。それと同時に、冷戦の初期から中国とソ連はお互いに不信感をつのらせていたと言われています。この事も中国の「対外援助」の形成を考える上では見逃せません。中国の対外援助を担っていた対外貿易部も1961年からはその役割を対外経貿聯絡総局という国務院直轄の組織に移ります。これにより全国の対外技術協力、対外貿易、そこに関わる財政の管理が一本化され、効率化されたと言われています。
この頃は中国の対外安全保障が非常に厳しくなっている時期でした。1959年に中印紛争が勃発し1962年に入るとイリ事件(新疆ウイグル自治区からウイグル人の大量亡命事件)が発生し1969年に中ソでも国境紛争が発生します。
この事から、中国の対外援助には「反ソ連」、「ソ連との競争」という性質が加わります。
※50年代末は周辺環境の悪化の他にも「大躍進政策」「人民公社」などの大量の餓死者を出した失策も無視できない。
参考書籍
陈松川著 中国对外援助政策取向研究 (1950-2010)
清华大学出版社 2017年8月第一版 P57-85
P154~159