しょうけい館。
8月15日に行ってきました
ここ数年は8月15日に、千鳥ヶ淵や靖国、しょうけい館を回る事を恒例行事にしています。ニュースになっている靖国神社、国立の追悼施設である千鳥ヶ淵は、とても有名で、今更ここで色々と説明する必要はないと思います。ここでは「しょうけい館」について纏めていきます。
「しょうけい館 」とは?
博物館へは九段下の駅、6番出口を降りて、写真の出口から出ます。
出てすぐの細い路地の奥を行くと、到着します。
取りあえず昭和館側の歩道をまっすぐ行くと着けます。行く場合は取りあえず、「昭和館」を目指してみてください。
下はホームページです。
「しょうけい館」は傷痍(しょうい)軍人の方々が経験した苦労を継承する博物館です。傷痍(しょうい)軍人とは、戦争で体の一部を失ってしまった軍人の事です。漫画家の水木しげるさんなんかも傷痍軍人です。
博物館では当時の実際の医療機器や、軍服。各種資料が展示されています。他にも、特別展示などで、日本の義手や義足技術の進化や。傷痍軍人に関する様々な事が知られるほぼ唯一の博物館です。
「しょうけい館」の歴史認識
この博物館の視点は「傷痍軍人の歴史」です。なので、具体的な日本軍の加害の事件も無ければ、アメリカ軍による空爆の被害などもあまりありません。しかし、展示からは「軍人の経験」を”全て”伝えようとする姿勢を感じました。
戦後、軍人恩給が廃止され、路頭に迷った苦労。
中国戦線で中国人漁民に助けられた軍人の経験。
最前線の戦線でハンセン病を発症し帰国後も辛酸を舐めきった軍人の経験。
そのほかにも様々な人の経験が知れます。それらの展示からは、侵略戦争の否定のニュアンスなどは感じられません。
色々な解釈はありますが、8月15日以降も戦闘は続いていました。故に、諸外国では9月に終戦記念日として祝う所が多くあります。なので、9月の内にお近くに立ち寄った際には、千鳥ヶ淵の引揚者の慰霊碑とこちらの博物館に行ってみては如何でしょうか?
参考
3.陸軍病院臨時箱根療養所の開設 / |箱根のディープな情報 箱ペディア|箱根の温泉・旅館・ホテル 公式ガイド「箱ぴた」
中国とアフリカ 「ネオ植民地主義」か「非西欧によるアフリカ独立の支援」か (その1)
はじめに
もうすぐTICAD(Tokyo International Conference on African Development)がケニアで開かれます。この会議は日本政府主導で、アフリカの開発援助等について話し合う会議です。
日本の技術等がアフリカの発展に寄与するのは大変喜ばしい事です。しかし、ここでもやはり、中国の存在がチラついてしまいます。日本のテレビでも過去に、アフリカ市場を争う、日本と中国の姿を取材しています。
このVTRの中では、中国製の粗悪な偽物はアフリカにも流れ、日本や外国企業の損失になっている事が伝えられています。アフリカへの援助や関与に、日本企業の投資環境を整備し日本経済の成長エンジンとして働いてもらう目的があるのは疑いは無いでしょう。そして、そこで競争する中国の存在は目障りのハズです。
本稿では、中国とアフリカ大陸の関係について、回数を分けて見ていきます。第一回目の本稿では、中国とアフリカの関係について、歴史的経緯を拾います。
中国のアフリカへの進出を語る時に日本のマスコミはこんな枕詞を使う事があります。「昨今の経済成長と膨張する中間層のための資源確保を目的にアフリカに近づく」
確かに間違ってはいません。しかし、「昨今の経済成長による進出」この部分に釣られると、中国のアフリカ進出のイメージや、中国政府が持っている世界観のイメージや正体が掴めません。では本題を始めましょう。
中国・アフリカ関係史
中国とアフリカの接触には意外と歴史があります。陶器と絹の交易記録が残る宋朝。15世紀の鄭和の遠征。また17世紀にはオランダが黒人奴隷を台湾に連れてきています。そして、一部は大陸にも渡っているようです。その後の帝国主義の時代は、逆に、欧州植民地で中国人労働者を雇い、アフリカの鉱山や建設現場に送り込む事例もあったようです。
時代を人民共和国成立後までに遡りましょう。中国政府は主に6つの形でアフリカに関わっていきました。
国家主権承認と国連加盟をめぐり台湾と外交のうえでの闘い。
共産主義革命や毛沢東思想のアフリカ大陸全土や第三世界への拡散。
対立する米ソ超大国の「中間地帯」と見ていた。
1960年以降、世界を舞台にした中ソ競争の一部として、中国政府はアフリカ諸国の支持をめぐり激しくソ連と競いあった。
アフリカは中国政府の外交や対外援助の方針を試す試験場。
1955年に開かれたバンドン会議(アジア・アフリカ会議)でアメリカにもソ連にも属さない、植民地となったアフリカやアジアの国々と結びつき反帝国主義の活動を始めます。しかし、この会議そのものはすぐに形骸化しほぼ無効になります。1960年代に入ると、第三世界のアジアやアフリカ、ラテンアメリカの革命勢力を支援し、イデオロギー面での指導権獲得に一段と力を注ぎます。周恩来もアフリカ諸国を歴訪します。余談になりますが、この頃からアメリカ国内の黒人の闘争を支持する動きもありました。また、毛沢東の『中間地帯理論』もこの頃に出てきます。これは、アジアやアフリカの国々の反植民地運動等を支援しながら、ソ連勢力にもアメリカ勢力にも入らないように妨害等々を行いながら、勢力の中間地帯や緩衝地帯として働いてもらうという理論です。また林彪も65年に『人民戦争の勝利万歳!』という論文の中で、貧しいアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの貧民の”勃興しつつある勢力”を”世界の農村”になぞらえ、西欧米諸国を”世界の都市”になぞらえました。そして、中国による干渉には言及せず、あくまで”自力更生”で、それらの”農村”の国家が”都市”を包囲して戦う事としています。このテーゼは、毛沢東思想の一部に組み込まれます。
建国直後から中国はすでにアフリカやラテンアメリカなどを視野にいれた世界戦略を練り、革命家や政治家などと関係を築きます。
ここにアフリカ側の都合も加えておきましょう。1960年代というと「アフリカの年」に当たります。1950年代末期、シャルル・ドゴール大統領が、フランスのアフリカ植民地のアルジェリア政策に失敗し、フランス共同体のアフリカ植民地が離脱します。それがきっかけでアフリカ諸国の反植民地運動が加速します。そして1960年代から続々とアフリカ諸国は欧米の植民地から独立していきます。
こうしたタイミングも相まって、中国はアフリカに関与していきます。恐ろしい事に、1960年代から毛沢東の死まで、中国国内の混乱に関わらず、中国はアフリカに関与し続けます。
下記の表では、1960年代に中国では「自然災害」で数千万人の餓死者が出ている時でも、ギニアやアルバニア(アフリカではない)に1万、1万5千tの米や麦を送ったり、70年代はタンザニアに鉄道を敷設したりしています。
中国とアフリカの関係は意外と深いです。しかし、改革開放を経て、関わり方も変わってきます。次回は改革開放以降について見ていきましょう。
以下を引用しました。
中国グローバル化の深層 「未完の大国」が世界を変える (朝日選書)
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P148
P347 P349 P384~385
「ゴジラ」に日中関係・日韓関係、大東亜戦争の文脈を入れることは可能か?
『シン・ゴジラ』を見ました
『シン・ゴジラ』見ました。傑作です!54年のオリジナルゴジラを見事に現代に透写した作品であり、54年のゴジラに衝撃を受けたであろう当時の日本人は、こういう感覚でゴジラに対峙したんだなと思わせてくれます。
この「ゴジラ」の存在を語る際にやはり「原水爆」「日米関係」「戦争の記憶」といった知識は欠かせません。一番古いゴジラが公開された「1954年」というタイミングは、ビキニ水爆・第五福竜丸・朝鮮戦争・警察予備隊、と、冷戦体制の構築が急速に進んでいったタイミングです。また、第二次世界大戦の記憶もまだ新鮮で、映画の中でも普通の人が、普通のトーンで「原爆から生き残ったのに放射能の怪物かい?嫌だね?」という事を言います。
ゴジラは
戦争の記憶の克服と新しい戦争が迫ってくる当時の日本人の不安を上手く表現している作品と言えます。
今作の「シン・ゴジラ」も日米関係・原水爆がキーワードになってきます。しかし、僕はゴジラ映画にはなんとか「日中戦争・満州」といった東アジア情勢の文脈を投射して欲しいのです。
なぜ、『ゴジラ』に日中戦争や満州なのか?それは、初代『ゴジラ』の主演、宝田 明さんのルーツに理由があります。宝田 明さんは当時日本の植民地であった朝鮮半島に生まれ、満州に移り住み、終戦の間際、ソ連の侵攻から命からがら逃れた経験の持ち主です。また、劇中で芹沢博士を演じた平田 昭彦さんも朝鮮半島出身です。それに特撮を担当した円谷英二も様々な戦意高揚のための映画に関わっています。もちろん、その中には日中戦争に関係するモノもあります。少々、本題とは逸れますが、満州で様々なプロパガンダに関わった人材が戦後の日本のメディア産業を支えました。
こう思うと、『ゴジラ』には満州から命からがら引き上げた経験や記憶・対峙じたソ連兵の恐怖・異民族と共に過ごした経験・ルーツの喪失といったテーマを含んでいてもよいのではないか?と思うのです。
因みに、ゴジラと中国を結びつけるこんな活動をしている方がいます。
最初に結論から言ってしまうと、私は『ゴジラ』を日中関係に結び付けて論じるのは可能であり、劇中でもそれを彷彿とさせるモノを入れる事も出来ると思います。例えば、ゴジラから避難するシーンに川崎の桜本などを映して外国人などを入れ、右往左往させたりする事で何とかそれを想像させる事をしてもいいと思います。
黄龍VSバハムート (その3) インドと中国の共通利益
中国とインドの共通利益
(その1)と(その2)では中印の競争や紛争の歴史を振り返りながら纏めました。今回は中国とインドの共通利益や協力関係について纏めていきます。
西側世界の人間は、中印間の競争に目が行きがちで、また希望的観測で、インドは西側につき中国と全面的に戦うことを期待しますが、中印両国は、根本利益や価値観の部分で共通している部分もあります。日米同盟に慣れ切っている日本人から見ると、すごく奇妙に見える時もあります。
中印間の共通利益は、二つの新興超大国が主要なグローバルフォーラムにおいて、かなりの程度、互いに協力し協調することを、可能にしています。このような共通利益の多くは、大国として再浮上するために同一の戦略を採っているという現実から生じています。そのために両国とも国内の経済の自由化を促進し、グローバル経済との統合を図っています。
同じくらい重要なことに中国とインドは、地球温暖化への対応において、重すぎる負担を求められたくはないという根本的な利益を共有しています。1850年以降の世界の二酸化炭素の総出量のうち、中国が占める割合は8%未満です。インドの放出は中国よりもさらに少ないです。中国とインドは先進諸国が自分たちの事を棚に上げて、自分たちの発展を阻止しようとしているのではないかという不信感を共有しています。アメリカは京都議定書を批准せず、コペンハーゲンの合意に移行させ、中印両国へ環境問題で圧力をかけることに成功しました。それについて、中国は激怒しました。
中国とインドがグローバルな場で共通の利益を持っていたのは、2003年のカンクンWTO閣僚会議もまたその一例です。中国とインドは、ドーハ開発ラウンドを締結するための合意を行うための譲歩をするにあたって、先進諸国により大きな負担を担ってもらうということについて、共通の利益を持っていました。この時は、インドの方が率先して、欧米諸国を批判しました。
カマル・ナート商工大臣は
「貿易交渉の結果が発展途上国の提案を求めるものであり、貿易を歪めている国内助成がー意味のある規制、先進国による市場へのアクセスの確実な改革、すべての種類の輸出補助金の廃止を伴いながらー確実に、効果的に削除されない限り、宣言の形で示した発展途上国の希望は、満たされたことにはならないのである。」と述べました。
因みにこの宣言は当時の商務部長である薄熙来と共に出されました。中国とインドは地球温暖化と貿易交渉においてより大きな負担を両国に課そうとする西洋諸国に不満を持っています。
インドの主席交渉官であるシャイヤム・サランはこのように述べています。
「能力は、発展段階とも関連がある。より豊かで進んだ国は、より貧しい国と比べて、気候変動に、よりよく対応できるのである。それゆえ、たとえ途上国の発展が、直近の未来においては、温室効果ガスを増加させることになるとしても、発展することが最もよい適応手段なのである。」
エネルギー政策もこれと似たような構図があります。場合によっては、ゼロ・サム競争も避けられないものとなっています。中国とインド両国がサウジアラビアから石油を買おうとする場合、高い値段をつけた方が買えます。しかしながら、中国とインドは共謀せずとも(これをやれば西側諸国からの非難は避けられない)競争が文明的なやり方で行われるようにルールを定めなくてはなりません。両国は主要な資源への開かれた継続的なアクセスが促進されるようにするという共通の目的が存在しています。中印両国は2006年、国外で石油資源に値をつける場合には互いに情報を共有するという約束を交わしました。アフリカでも2004年以降、協力の姿勢が見えます。
中国とインドが理念を共有する分野がさらにあります。それは食料です。両国ともに工業化に伴い食料自給率は減っていくことが考えられます。故に外国から食糧をさらに輸入しなくてはいけません。この事は食糧価格の高騰や、食糧生産のための各種資源の高騰などを引き起こし、特に西側先進国の中間以下の所得層の生活に強く影響します。
中印両国にとって食糧の需要と供給について、共通のグローバル規模での予測を行うことは共通の利益です。
2013年3月1日、インドの外務大臣S・M・クリシュナと中国の楊 潔篪外交部長の会談において、両国は、海洋対話を創設し、制度化することで合意しました。
「インドと中国は共に、主要な海洋国家である。両国は、長い海岸線を持ち、活動的な海軍を擁している。そこで、両国は、海洋問題を話し合うための対話の場を設けることが有益であると感じているのである」と広報官たちは述べています。
海洋の領域でも、中国とインドは、水産資源を保護するための実行可能で長期的なグローバルな枠組みを築くという事で共通の利益と価値観を持っている。
そして、アフガニスタン情勢に対する対応でも中印は共に協力しながら対応しています。テロリストの抑え込み、アフガニスタン情勢の平定への貢献は、中国的にはウイグル族のイスラム原理主義テロリスト封じ。現在のヒンドゥー至上主義的で反イスラムのインド的にも都合がいいです。
中国とインドの関係は、これからも競合と競争、対立と妥協がモザイクのような姿で現れる事が考えられます。二か国とも核保有国であり国境問題を抱え、民主主義と権威主義という全く異なる国家体制のため、緊張状態の緩和は一筋縄ではいきません。しかし、パキスタン情勢やアフガニスタン情勢、国際貿易や環境問題をテコにし、パワーバランスを保ちながら、協力する場面もみられる事になるでしょう。
以下が引用文献です。
P255~268
参考記事と文献
「支持推进“阿人主导、阿人所有”的阿富汗和解进程」という記述あり。
2016年4月18日に行われたロシアとインドと中国の外相会談の中でもアフガニスタン情勢平定についてお互い協力する意向をしめしています。
台頭するインド・中国 ― 相互作用と戦略的意義 (慶應義塾大学東アジア研究所叢書)
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参考映像資料
中国経済の失速以降、インドの台頭は中国国内でも意識され始めています。
モディ政権はヒンドゥー至上主義で、商業人気質と言われているので、そこも中国としては気になる所だと思います。
20150516 一虎一席谈 中印关系是零和博弈还是携手同行
黄龍VSバハムート(その2)
(その1)では戦後から冷戦までの、中印関係の一番、簡単な所を纏めました。今回は主に2000年以降の動きについて見ていきます。
黄龍VSバハムート
冷戦終結と改革開放で、アジア地域は経済の相互依存化が進みましたが、中国とインドの関係は大きく動く事はありませんでした。ヒマラヤ山脈が国境にそびえているので、政治的な理由以外にも簡単に交流が持てないのも確かだと思います。中国とインドには様々な面で分断線が引かれているのです。
冷戦末期において、中国はアメリカに寄りそい、インドはソ連に寄りそっていました。インドの中にはパキスタンを支援している中国を反動的と見ています。また、中国の対インド海洋包囲網「真珠の首飾り」も強く警戒しています。
「侵入を増加させることによって、中国は、インド軍をヒマラヤ山脈沿いに釘づけにしようとしているのだ。北京は、ニューデリーとの国境をめぐる話し合いを、インドに対する軍事的圧力を高め、戦略的にインドを包囲するための隠れ蓑としている」と
ブラーマ・チェラニーは述べています。
また氏は、「インドの周囲の国々は、中国がインドを包囲するための戦場と化している。中国は、1962年の軍事的侵攻と、それにつづく地図作成上の攻勢から、水資源を押さえる事と、インドを多方面にわたって戦略的に締め付けることへと、その攻勢手段を変えてきた。チベットからインドへと流れる河川を中国がダムでせき止めることによって、インドの水資源における脆弱性が明らかとなった。インドは、核における不利な立場を、信頼はできるが、最小限の核抑止力を構築することで埋めたとしても、水資源における脆弱性は抱えたままなのである。」とも述べています。
元外務次官で現在は政府の国家安全保障委員会の一員であるカンワル・シバルは
「彼ら(中国人)が港を設け、足場を築くやり方は、一見めちゃくちゃだが、そのなかに計算された緻密さがある。このような努力は、インドがこの地域において生来持つ影響力に対抗し、削り取ることを目標にしているのである。」
中印のトラブルは2000年代も継続的に起きています。
インドは、2007年5月、高等行政官による中国訪問を取りやめました。アルナーチャル・プラデーシュ州生まれの一人のインド行政官にビザを発給することを拒否したからです。中国はアルナーチャル・プラデーシュ州を自国領と主張しています。中国は、同様に、インド陸軍のB・Sジャスワル中将へのビザ発給も拒否しました。中将が、中印間で係争中のジャンムー・カシミール州を管轄する将校だというのがその理由でした。インドは、これに対する報復として、インド国立軍事学校留学を目的にして訪印予定であった二人の中国人将校の入国を拒否し、予定されていたインド将校団の北京訪問を中止しました。
中印のライバル関係に注目し、アメリカはインドに近づくことに成功します。
2008年8月に、インドが民生用の核物質の取引が出来るように例外措置を与えるよう原子力供給国グループ{NSG}に働きかけました。これによってインドは核開発計画に事実上の「承認」を得たのです。9月にはNSGがインドに例外措置を与え、民生用の核技術にアクセスすることと、他国から核燃料を得ることを可能にしました。そして10月、米印原子力協定が結ばれた。このとき、マンモハン・シン首相は、ブッシュをインドの偉大なる友人と宣言し、「歴史が書かれるとき、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、我々二つの民主主義国家を近づけるために歴史的な役割を果たしたと描かれるであろう」と宣言しました。
米中間の争いにおいて、インドがアメリカ側につくことは間違いなくアメリカの利益となるが、これが長期的にインドの利益にかなうかどうかは、それほどハッキリしていない。
キョール・マブバニ氏はニューデリーにて
「中印はともに成長するのか、それとも別々に成長するのか」という講演を行った。その中で、氏は、中国とインドの両国は、経済成長と、文明の復興のために、極めて有望な段階に入りつつある。この貴重な機会を、ゼロ・サムの地政学的競合に費やすことによって失うことは、中国とインドにとってまったく愚かなことである。このような競合は,既成の大国である西洋諸国、特にアメリカの利益となるだけである。アメリカは、中国の台頭を抑えるために、インドを当て馬にしようとしているのだ。と述べた。
これに、国家安全保障顧問のメノンは、基本的には、合意した。
彼は、「インドは、数千年に及ぶ自らの戦略文化を持っている。そのインドが、どこかの国に駒として使われることを自らに許すことはないだろう」と述べた。
世界の二大新興国として中国とインドの両政府は競争関係にあり、それはさらにヒマラヤ辺境やインド沿岸部やミャンマーにおける戦略地政学的な競争によっていっそう激しいものとなっています。どちらの国も軍隊の近代化を推進していますが(とくに海軍)おかげでどちらも典型的な「安保ジレンマ」に陥っています。つまり、互いに防衛目的のつもりで軍事投資を拡大するわけですが、それが翻って相手には攻撃的な脅威だと受け止められてしまうのです。どちらも核保有国で相手を標的にしたミサイル発射システムを開発中というのも、可燃性の高い戦略関係の一因です。チベット問題と、ダライ・ラマの亡命政府がインドに身を寄せていることも、さらに問題を複雑にしています。エネルギー安全保障をめぐる競争、並びに安全な海上交通路(SLOC)の確保をめぐる競争も、ますますデリケートになっています。
纏めていうと、戦略的な不信感と増大する利益が、今後も中印関係の足枷となりえます。インド側からすれば、もしかすると最大の問題点は、中国にとって「どんなときでも友人でいてくれる」相手のパキスタンなのかもしれません。中国政府とパキスタン政府は1950年代初めから常に緊密な、同盟そのものの関係を保ってきました。長年にわたり、パキスタンがインドと対立するほとんど全ての事案について、中国はパキスタンの側に立ってきました。パキスタンへの最大の武器給与国は中国で、インド政府がカシミール問題などデリケートな案件を問題にしても中国はとりあってこなかったです。中パ枢軸の存在は、中国とインドの間の緊張を悪化させる一方です。
またスリランカと中国の関係も、インドは警戒しています。タミル民族の問題から、インドがスリランカから目を離し、欧米各国も距離をとった所に中国は入ってきました。ここは、中国が海上からインドを包囲したりするための要所ともなりますし、海上シルクロードの要所にもなります。
今回は2000年代の主な「衝突要因」を抜き出しました。次回の記事では、中印の共通利益について見ていきます。
以下が引用・参考文献です。
P251~255 第五章 地政学は収斂を阻むのか? 中印関係について
中国グローバル化の深層 「未完の大国」が世界を変える (朝日選書)
- 作者: デイビッド・シャンボー,加藤祐子
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P140~141 第三章 国際社会における中国外交のプレゼンス
黄龍VSバハムート(その1)
ユーラシアの巨人 中国とインド
中国経済の失速によって、チャイナ+1というプランが脚光を浴びています。これは中国と他のアジアにリスクを分散させるというモノです。その+1の有力なパートナーとして考えられるのがインドです。ゴールドマンサックスなどの見通しでは、インドもいずれは中国に追いつき、ユーラシアの姿を変えると言われています。中国とインドの関係を見る事は、これから先のユーラシアのパワーバランスを占う事にもなります。回数を分けて中印関係について整理し、今後の行方を考えます。
戦後直後から冷戦までの中印関係
中国とインドは共に、超文明大国であり植民地支を受けた国として、一時期は手を結んでいた事もありました。アメリカにもソ連にも属さない非同盟諸国として、中国の周恩来とインドのネルーが中心となって、バンドン会議(1955)を開いたりもしました。しかし、それもすぐに瓦解します。中国による西蔵侵攻でパワーバランスが崩れ、ダライ・ラマのインド亡命で関係が悪化します。その後、中国は核兵器の開発に成功。中ソ論争、そして文革に突入し、中印は完全に関係が途絶します。
インド側の事情も少し確認しましょう。インドでは戦後、英国から独立する際、様々なトラブルが生じます。その代表的なモノがパキスタンとの関係です。インドには多数のイスラム教徒が存在しました。そのイスラム教徒をパキスタンやバングラディッシュに移住させたりしたので、道中ではトラブルもありました。パキスタンとインドは不倶戴天の敵と言えるわけです。そこに『敵の敵は味方理論』でパキスタンと中国が結びつきます。そしてインドも対中国をにらみ核武装に成功します。そしてパキスタンも核武装をします。中印パの三国は核兵器でお互いを抑止していたわけです。中印パは領土紛争も抱えています。また60年代の中国は各国に革命を輸出していたので、南アジア地域でも「毛沢東主義者」がテロ活動などをしていました。
以下が年表です。
第一次印パ戦争(1947~49)
中印戦争(1959~62) 中国核保有(1964)
第二次印パ戦争(1965~66)
第三次印パ戦争(1971) インド核保有(1974)
パキスタン核保有(1998)
戦後直後から冷戦期の日本以外のアジアはまさに、貧困と混乱と殺戮の象徴であり、大国の代理戦争の犠牲者でした。この状況は、ソ連の崩壊。中国やベトナム(70年代から80年代)などで市場経済の導入。インドも91年に経済が自由化する事で大きく状況が変わっていきます。
次回はその後の事について見ていきましょう。
南シナ海 仲裁裁判を受けて。
南シナ海に関する中国とフィリピンの紛争仲裁判の判決が出ました。結果は中国の完全敗訴ではありますが、その判決結果を受けて、台湾と東南アジアとの関係が混乱したり、沖ノ鳥島に議論が飛び火したり、思わぬ事態が起きています。
ここでは、南シナ海の基本を押さえ、判決後の動きを台湾メディアなどから引用しながら南シナ海で何が起きているか、俯瞰したいと思います。
南シナ海問題の基礎
ここで押さえておくべき基本は、南シナ海を巡る情勢は、中国VSフィリピンの対立構図ではなく、中国・台湾・フィリピン・ベトナム・マレーシアが入り乱れで、占有しているという点です。更に、中国は埋め立て競争には一番最後に参加した国です。
また、南シナ海の混乱の原因には日本も少なからず関与しています。以下の記事を参考
あの海はシーレーンとしての役割があります。中東からの石油などはあそこを通って日本にとっても大切な海です。基本はここまでにしましょう。それでは、今回の判決以降の流れを追いましょう
仲裁裁判で一番得をしたのは誰か
12日のハーグの裁判結果は中国の完全敗訴で終わり、中国が主張する九段線の正当性が国際法によって完全否定され、中国の埋め立ても自然環境破壊やフィリピン漁民の権利の侵害で完全否定されました。しかし、その判決のある部分が問題でした。それは今回の判決で、南沙諸島には「領土になる島は存在しない」という部分です。即ち、台湾の太平島も「島ではない」という事にもなり、他のベトナムやマレーシアといった国の島も存在しないという事になります。更に沖ノ鳥島の存在にも疑問が出てくる形にもなりました。
対中包囲網の強化どころか逆に更なる混乱をもたらす事になってしましました。
この判決が出た後、台湾では太平島の存在の正当性のアピールや、安全保障のために軍艦を派遣する騒動になっています。
台湾、南シナ海に軍艦派遣 「国益守る決意示すもの」=蔡総統 | 政治 | 中央社フォーカス台湾
この記事ではベトナムを強く否定しています。
以下の記事は、太平島の湧水をアピールし、島としての存在の正当性をアピールしています。
<南シナ海>海巡署「太平島の井戸水は良質」、島の条件強調/台湾 | 政治 | 中央社フォーカス台湾
今回の騒動、確かに中国は負けましたが、中国包囲網の形成は強化される処か、南シナ海情勢に改なる混乱をもたらしたと思えてなりません。またフィリピンのドゥテルテ大統領は中国との二国間協議に前向きと言われています。本当に中国を負かしたのでしょうか?
私は「南沙諸島に領土としての島が無く、自由に外国が行き来できる」こういう結果を喜ぶのは、アメリカと日本しかいないと思えてなりません。アメリカは以前から南シナ海は領有権争いが解決するまで、国際水域として扱うという立場を表明しています※
(週刊 ニューズ・ウィーク2016 7月19日号 特集より)
東アジアにはもう一つ北朝鮮という時限爆弾もあります。南シナ海での中国抑止か朝鮮半島の北朝鮮の抑止か、難しい局面である事は確かです。