ヘッポコなソ連の第三世界戦略
「中国と第三世界」を学んでいますと、その過程で色々な意外な歴史などを勉強する事になります。中国が第三世界へのアプローチを強化したきっかけとして「中国とソ連の関係悪化」があります。なので、ソ連に関する論文なども見る事もあります。ここでは、「ソ連の第三世界戦略」に関する研究論文を翻訳編集してみたいと思います。
ソ連とアメリカは冷戦期に世界覇権を争っていたと言われていますが、その一番最初はとてもお粗末なモノでした。ソ連が1955年から1957年に国連を通じて途上国に派遣したアジア・アフリカの専門家はわずか48名でした。同時期のアメリカの専門家は924名、イギリスは1143名、フランスは683名でした。また1959年にソ連が派遣した352名の専門家のうち三分の二が外国語を使えませんでした。それでもソ連は第三世界に対して接近を試みます。初期のソ連の主な援助対象はアフガニスタン、アラブ首長国連邦、インド、イラン、ギニア、スリランカ、キューバ、エチオピア、マリ、パキスタンでした。
国内のアジア・アフリカ研究に関する機構も再編を行いました。それらの組織は当然ソ連共産党と密接なかかわりがあり、各国の左翼政党との関係構築に貢献する事になります。また、こうした研究機関の刊行物やメディア環境も整えられ、1961年の末ごろになると様々なアジア・アフリカ言語でプロパガンダを発信できるようになりました。ソ連は世界革命を率いる国家として自身を宣伝しようとしていました。しかしアフリカ国家からは「工業化した白人帝国国家」つまり植民地国家と見られていたようです。終戦直後のアフリカは白人を一切、信用していなかったようです。
こうした不信感はソ連で軍事訓練を受けていたアフリカ人の経験も相まって強化されます。ジョージアのトリビシでアフリカ人に対するヘイトクライムやヘイトスピーチが記録されています。
こうしたところに中国が入り込むスキがあったわけです!
中国の挑戦
中国も建国の最初期からアジア・アフリカの国に援助を行っていました。そして中ソ関係の雲行きが怪しくなるにつれて、ソ連も中国のアジア・アフリカへの外交を注視し始めます。当時、中国は無利子貸し付けによる援助の方式をとっていました。中国は当時まだ世界最貧国で場合によってはレシピエントよりも生活の質が低い状況だったので、ソ連の専門家は警戒感もありつつイマイチ評価が定まらなかったようです。
しかし、それもソ連のアフリカ大使館からの具体的な報告で評価が変わってきます。1962年1月RIAノーボスチの社員によるかなり「中国はアフリカで大使館や領事館、貿易団を通じ廉価の毛沢東主義の宣伝冊子を流通させている」」という報告が上がりますこうした要旨の報告は1963年から1964年にかけて増加していきます。アルジェリアを旅行したロシアの共産党機関紙ジャーナリストの報告でも、「中国のプロパガンダはアルジェリアのいたるところで見られる。ソ連のプロパガンダは書店でしか見らられない。しかもその書店の中央に置かれていたのは中国のプロパガンダ冊子だ」と報告されています。
これらの積み立ての成果は今日では言うには及ばないと思います。
参考統計
ソ連のアジア・アフリカにたいする自動車輸出総額
赤いアンダーラインがアフリカを意味する
その他、参考文献
※引用
冷戦国際史研究9 華東師範大学冷戦史研究センター
世界知識出版社
60年代苏联的发展中世界的政策与中国的挑战
杰里米·弗赖德曼(Jreremy Friedman)