北東アジアを考えよう!

北東アジア(日中韓台朝)をメインに、ユーラシアを包括的に捉えよう。 

中華思想の源流

そもそも”中華思想”とは?

 

南シナ海東シナ海など、

中国の行動を批判するときに「彼らは中華思想だから危険」という文言が使われるので

多少は聞いた事があると思います。しかし、自民族中心主義的な考えは何も中国独特なモノではありません。アメリカもマニフェスト・ディステニーというモノがあります。では、この”中華思想”とは一体どういうモノで、どういう経緯で作り上げられたのでしょうか。

 

ここでは、中国の歴史を見ながら”中華思想”がどういった経緯で創られていったか見てみてみましょう。申し訳ありませんが以下からは論文調になっています。ご了承下さい。

 

 

 今日知られる中国の起源は、紀元前11世紀頃に黄河流域に興った周にさかのぼる。それ以前の商(殷)の時代にも、すでに現代中国の基盤である表意文字、祖先崇拝、単一統治者の概念が形成されつつあった。

 

そして中国の国土の輪郭は、すでに西暦紀元以前から現在の形をとり始めていた。

 

 中国を統一した最初の皇帝である始皇帝は戦国時代に終止符を打ち、秦王朝(紀元前221~206)を打ち建てた。紀元前206年頃には、秦の判図は現代中国の中核をなす地とほぼ重なっており、南はヴェトナム、北は長城まで広がり、黄河揚子江に挟まれた人口密集地をも抱えていた。統一を果たした秦王朝は世界有数の大国だった。さらに、中国は早くから有能な官僚機構によって行政が成されていた。それは文章のおかげである。欧州では、長いあいだ文字を読める人はほとんどいなかった。本がほとんどなく、個々の著作は修道僧の手で羊皮紙に筆写されていたからだ。それに対し、中国は早くから安価な紙を使っていた。初めて印刷された本が出たのが紀元前868年。孔子を初めとする思想家の集成や百科事典、辞典の類から、歴史書、医学書、農業や数学についての本などが出されている。それら書物のおかげで新しい知識は急速に広まり、技術革新や農業生産力の向上、人口の増加等に寄与した。

 封建的な特権が重視されることはなく、7世紀には中央の選抜試験(科挙)で役人を採用するようになった。また度量衡の統一もなされた。今日、中国特有といわれる習慣「天命」の概念「孝」を重んじる家族制度表意と象形を用いた文字言語祖先崇拝にもとづく信仰などーは秦代にはすでにほぼ成立していた。この政体の統一は世界的に見てかなり早い時期に成し遂げられた。

 

さらに、政治学者のフランシス・フクヤマ氏によると、秦の成立は「世界初の近代国家の建設という意義がある」という。近代国家とは、中央集権化され、官僚制が整えられた統一国家の事である。

 またフクヤマ氏は「秦以降の中国が分裂しても再び統一できたのは官僚制と文化が根付いていたからだ。官僚の教育システムや共通の文字を持つことで人々は一つの国としてまとまるという経験をした。人々はかつてのような秩序が崩壊した戦乱の世に戻る事を恐れていました。強い統治者がいれば安定と秩序がもたらされるという強烈な記憶が人々に受け継がれていった。」と評している。

 

短命に終わった秦ではあったが、ローマ帝国に匹敵する4000マイルもの古代道路を建設し、ローマと同様、中国でも大都市を賄えるだけの市場経済を発達させた。北京の人口は110万人に上り、広東には80万、杭州には50万、蘇州には40万の人が暮らしていた。これだけの大人数が広域商業だけで生計を立てていたのである。

  秦が衰えたあと、漢(紀元前206~後220)は更に領土を飛躍的に拡大し、紀元前141~87年には最大となり、北東は南満州朝鮮半島、南西はヴェトナム北部まで軍を進めた。中国はその後1000年にわたって、北、北東、北西、南、南東方向に拡大していった。中国が獲得した広大な地は、この大陸の自然境界である北の草原、南と東の海岸、南東の山地によって区切られている。大陸内でのたび重なる移住、伝達手段の向上、数世紀にわたる政治的統合の実現もあって、当時としては膨大な数の住民の間に比較的均質な文化が生まれた。また、漢代には暦の統一事業も行われた。広大な領域との農業生産や天候を把握し、官吏の文書や物資の受領記録に時を正確に記録するために、帝国全体で共有できる“時間感覚”を作り出す必要性を武帝は理解していたのだろう。武帝が制定した“太初歴”はその後、190年間使用される事になる。秦漢代のこれらの政策で、中国は空間軸の文化的広がりの感覚と、時間軸の文化的広がりの感覚を他の文明圏よりも早く深く経験する事になった。「中華世界を宇宙的感覚で捉えろ」と言う私の知人がいるが、秦漢代のこの経験が元になっているのかもしれない。

 中国の中央集権制度と洗練された国家運営は、孔子を祖とする儒教思想に根ざしており、儒教はじつに2千年以上にわたって中国人の政治的・道徳的世界観に多大な影響を与え続けてきた。欧州と違って、他の組織と競合することはなかった。強力な教会があるわけでもなければ、軍隊も独自の道を歩むことなく、おとなしく官僚機構に従えた。権力闘争はあったが、官僚機構は残り続けた。中国の宮廷の生活は、欧州人が体験した限りでは、とても奇妙なモノだった。皇帝は行政機関を全面的に信頼していた訳でもないので、密偵や宦官をそばに置いてその監視に当たらせた。また、皇帝の一族は未満に至るまで養ってもらう立場にあり、その数が17世紀には10万にまで膨らみ、相当な財政負担となった。そんなふうでありながらも、中国を見ていて目につくのは、合理的かつ理想的な行政機構が非常に早くから発達していたことだ。たしかに隙あらば権力をわがものにと狙う宦官や堕落した役人はいくらでもいた。でも、そういう事を排除できる土壌は出来上がっていて、そのたびごとに改革がなされ、効率的な官僚機構を作っていこうという動きにつながっていた。中国の行政は驚くほど小さなもので、役人の数は最大で1万5000,それでも巨大な帝国の隅々にまで行きわたっていた。

 

 中国の諸王朝は何度となく北方から(とりわけモンゴル系と満州系から)侵略を受けた。しかし、中国最大の特徴の一つとして、これらの侵略者たちはみな、支配権を握るや中国人の習慣や価値観を採り入れ、中国の政治理念と制度に則った統治に努めた(その支配が一世紀に満たなかったモンゴル系は例外)。中国の放つ威信と、北方の敵が中華文明へ抱く敬意の裏付けといえよう。中国語の分布は持続的で安定しており、これもまたこの文化の強さを示している。たえず北方からの侵略にさらされた中国の人々は移住を余儀なくされ、言語も各種の方言に分かれたが、同時にこれが自言語・自文化への意識を高め、これを保とうとする姿勢に繋がった。今日の中国を理解する鍵はおそらく、何よりもまず中国人アイデンティティの形成初期にある。これなしに中国は二千年もの間ほぼ統一された姿ではありえなかったし、その最大の特性―すなわち国の大きさーも保てなかったはずである。

歴史的にみると、比較的高度に発達した農業形態があってこそ膨大な人口を維持できるし、それを国家として発展させる好条件ともなるのだが、中国はこの現象の典型的な例だった。アワ・キビと稲は、それぞれ中国の北方黄河流域と南方揚子江流域で発見された、今から一万二千年ほど前のものが世界最古だとされている。これは今から八千年前ほど前に定住農耕が始まったメソポタミア文明の例よりも早い。北方では長いこと、大麦、粟,キビなどの穀物からなる「乾性」の農業が営まれてきた。

 しかし、紀元はじめに水用稲作が普及し始め、紀元1000年を迎える頃には全盛期となった。南部では稲の栽培が急速に普及し、長年にわたって品種改良の実験が繰り返されるうち、ついに、植え替えてから収穫までの期間が150日から30日へと短縮されるまでになり、収量が格段に増加した。中国の犂は欧州のそれよりも優れ、有機肥料も早くから投入されていた。巨大な灌漑設備もあり、輪作も盛んで、耕地を休ませる事は無かった。播いた種の量と収穫した量の比率は中世には1対10に達していた。かたや欧州では1対4でしかなかった。この隔たりは以上である。欧州の農業がトータルで12世紀の中国並みの生産になったのはようやく20世紀になってからの事だ。中国の農業全体がおおいに活性化した結果、中原から揚子江下流域の低地へと経済の重心がシフトした。更に苗植え、早稲米、稲種選別、高い場所にある田に灌漑するための竜骨車(揚水機の一種)などの農具、灌漑形態の発達など、新たな水稲農法や技術が次つぎ導入された。これらのおかげで中国の水稲作は技術面で世界でもっとも進んだ農業の一つとなり、収穫高がおおいに高まった。

 宋代(960~1279)にはこうした技術が広域な地域で日常的に使われるようになり、領土の拡大とともに更に南へと伝わった。農業の繁栄につれて人口が急激に増え、紀元1000年~1300年の間にはほぼ倍増をみた。500~900年の間に中華帝国の国土には数多くの舗装道路が張り巡らされ、唐代には国じゅうの主要な都市から8~14日間で都(長安)に着くことができた。更に重要なのは河川・運河・沿岸海路による水上交通の発達である。これら様々な水路は交通網の一部として不可欠であり、この交通網を基盤として1200年頃までに全国規模の市場が形成された。ヨーロッパ最大の海港都市ヴェネチア出身のマルコ・ポーロは、13世紀後半の揚子江についてこう語っている。

 この河はかくも長い距離を、かくも多くの地域を貫いて流れ、その岸にはあまたの都市があるので、実のところ、上下する船の数においても、また船に積まれた品物の量とその価格においても、キリスト教諸国のすべての河、すべての海が運ぶものを合わせてもこの河には及ばない。

 中国経済はますます商業化が進み、12世紀には北方でも南方でも紙幣が流通するようになった。贅沢品であれコメのような作物であれ、広域間を結ぶ大規模な取引がおこなわれた。宋代には沿岸交易がさかんになって日本や東南アジアへもその範囲が広がる。都市化が進み、13世紀後半には、当時の中国最大の都市・杭州の人口は700万人にのぼるほどだった。中国は当時の世界でもっとも都市化の進んだ都市であり、都市人口は全体の約10%にも達した。宮廷官吏や儒教の学者がまわりから尊敬され、伝統的な上流階級をなしていたのはもちろんだが、商人も軽蔑の念で見られることはまったくなく、遅くとも16世紀までにはエリートの「商業化」が進んでいた。商人の子女が役人の家に嫁や婿として入ることができるようになり、やがてそれが広く行われるようになった。こうした名門の結びつきは、富裕な商人がどれだけ声望があったかを示すものだ。

 しかし中国の都市は、ヨーロッパの都市のように政治的自由や個人の自由を約束するような存在ではなかった。中国では、中央集権的な帝国組織のおかげで都市の自律的発展が進まなかったのであり、このパターンは20世紀になるまで変わらなかった。

 政府の奨励もあって、宋代とりわけ北宋(990~1126)では学問が栄え、数々の画期的な発明が相次いだ。中国のルネサンスとも称されるこの時期には、科挙制度の発達、新儒教朱子学陽明学など、宋代以降にあらわれた儒学諸派を総称する欧米での呼称。宋明理学}の誕生、火薬・火砲・木版印刷の発明、書物の普及、数学・自然科学・天文学・地理学の進歩などが見られた。大がかりな紡績機も発明され、これはもう一歩のところで、何世紀か後の英国で起こったような、産業革命の(少なくとも理論的には)口火を切る紡績機となれたかもしれない。これに比べて、ヨーロッパでルネサンスが始まったのは北宋が滅びて二世紀以上もたってからだ。木版印刷による書籍の普及、大規模な百科事典、科挙受験生の増加、数学の高度な発達(とくに代数学)、士大夫の形成にみるように、中国は当時の世界でもっとも読み書き計算能力に優れた社会だった。これに比較しうるのはイスラーム圏だけで、ヨーロッパははるかに立ち遅れていた。中世を通じてヨーロッパは、紙、羅針盤、手押し車、船尾舵、糸車、木版印刷など様々な技術を中国から借用することになる。

 1300年頃を境にこのような繁栄期はすぎ、中世中国の経済革命は停滞期に入って1500年頃になるまでそこから抜け出せなくなった。中国にとって様々な面で黄金期であった宋代はモンゴルの侵略によって終わり、元(1271~1368)が成立して中国はモンゴル帝国の一部に組み込まれた。経済が停滞した原因はいくつかある。中原から南に向かって版図を拡大した時代には、中国の活力の源は新たな農地の獲得によるところが大きかった。しかしこれらの農地もやがて北方からの移民でいっぱいになった。こうして資源が不足しがちになり、中でも特に足りないのが食糧だった。いっぽう、みごとな進歩をみせた科学の分野も翳りをみせ始めた。宋は外国との貿易や交流を重視した。とくに日本と東南アジアとの交易が知られるが、中央アジアインド亜大陸、そしてアフリカ東海岸にまでその範囲は及んだ。

 しかし明代(1368~1644)になるとこの動きはしだいに逆向きになっていく。倭寇による中国船への大々的な海賊行為を理由に、1371年、明は沿海部住民の海外渡航を禁じた。1390年の勅令によれば「広東と広西・浙江・福建の愚民は禁令を知らず往々にして外蕃と通じ、私かに貨物を易うる。ゆえにこれを厳禁す」とある。この頃から3世紀にもわたって、まず私貿易の、そしてのちには公の貿易を制限する禁令が続く。マカートニーが訴えたように、1757年には、政府が外国貿易を許可した港は広州だけとなっていた。

 1411年、北京、天津と南方の杭州ならびに肥沃な米作地帯である揚子江流域とを結ぶ大運河(紀元前5世紀から紀元7世紀にかけて建造された大運河がその原型)が再建されたのは、これによって沿岸貿易が海軍をほとんど必要しなくなったという意味で決定的な出来事であった。宋の誕生から明初の鄭和遠征(1405~33)までほぼ四半世紀半にわたって、中国は世界的な海洋国家だった。船室構造を持つ巨大な艦船(最大で甲板4つ、マスト4~5本、帆12張もつことが可能)は船尾舵を装備し、海図と羅針盤を用いて航海し、1度に500人が乗船できたという。鄭和が東南アジア、インド洋、アフリカ東海岸への航海に使用したのは、当時でいう世界最高の船だったのである

 しかし、この遠征が終了したとたん、中国の海洋力は急速に衰えてしまった。1436年、大型航海船の建造が禁止され、小型船の建造数も減らされた。このようになった原因はよく分からない。しかし、鄭和遠征のような事業を続けることが出来なかった理由はいくつかありそうだ。まず明の政治的変化があった。1421年に都が南京から北京へと遷ったことで北の辺境がより重要視され、遠洋や沿海部への関心が薄れた。大航海にかかる費用と北方のモンゴル征討が成果をあげていない状況とか、ともに懸念されるようになった。また、中国の統治者にとって最大の課題はつねに社会秩序と支配の安定であったが沿海都市が海外勢力と結託して支配権を主張する恐れがあった。さらに、異民族モンゴルの支配を脱した明代には、夷狄(とくに北方遊牧民)に対する中国文明の優越意識が高まり、その結果、専制的で孤立を好む方向に走ったとしても不思議ではない。

  それでも1500~1800年の間には経済は停滞から抜け出し、力強い成長そして繁栄へと転じた。食糧供給も着実に増加した。これは西部と中央部での移民と開墾の結果、新たな可耕地を得たこと、(トウモロコシや落花生など新生物の導入も含めた)生産性向上、灌漑の改良による。中国の人口は1300~1800に五倍となったのは、こうした動きに支えられていたのである。また1820年当時の中国は3億8100万人の人間が暮らしていた。同時期、欧州の人口は1億7000万である。

 この時期の中国の発展は、中世の経済革命の力強さと比べれば影が薄れがちである。なぜなら1800年前後、中国の人口稠密はさらなる人口増にあえいでいたからだ。土地と森林の減少が進み、食糧、繊維、燃料、建材が不足した。中国の主要地域である黄河揚子江の間の土地は肥沃で、かねて膨大な人口を養ってきたが、この頃にはこの土地が酷使されて疲弊してしまったためだ。このことと、新規開拓地の地質の悪さとがあいまって、中国はより深刻な苦境に追い込まれた。

 それでも18世紀の中国は世界最大の経済圏であり、インドがこれに続き、ヨーロッパはさらにその次である。アダム・スミスは中国を、市場を基盤とする発展の典型例だとみて、「中国はヨーロッパのどの地域よりもはるかに富んだ国」と1776年に述べた。事実、ロンドンが北京に変わって世界最大の都市となったのは1850年以降のことだ。

 

 ならば、なぜ中国では産業革命が起きず,清朝が没落以降、中国は地獄のような100年の歴史を歩む事になるのだろうか。中国の減速は、最近の研究によれば、どうやら秘かに進行していたらしい。中国の発達を阻害した要因として、商人が、尊敬されはしたものの政治的に独自な生き方を送れなかった事が挙げられる。中央政府は、収穫を増やし、税収を多くするため商業や生産にはあまり関心を示さず、もっぱら農業のほうに重きを置いていた。中国の官僚政治がほかの文化に対してきわめて閉鎖的だったことも妨げとなった。 

 さらに、宋のあと明以降の中国には技術革命があまり見られなかったのも原因と考えられる。例えば歴史家のデヴィット・ランデスは清について述べた文章で「中国では技術・科学に関して無風状態が長く続き、過去に得られた知見にばかり頼って、才能ある人材が上流階級化してスピード感が失われてしまった」という。

 清朝の拡大も中国にとってリスクであった。清はみずからを、海洋ではなく大陸に基づく文明とみなし、内陸の北部と西部に多大な関心を寄せた。清が1644年から18世紀後半に至る拡張の過程で獲得した土地は、ユーラシアの内陸部であり、可耕地も人口も乏しく、新世界のような規模で原材料を供給できる土地でもなかった。これらの土地では石炭埋蔵量がかなり多いが、いずれも人口集積地から非常に遠く、繊維産業の拠点からも揚子江下流域の運河からも遠かった。

 中国は大き“すぎる”が故に産業革命が起きず、世界情勢の変化のスピードについていけなかった。中国が資本主義に行き着かなかったのは、この国が隣国を制圧した巨大な国で欧州の特徴である小国どうしの競争が欠けていたからだ。

 その後、中国は清朝が崩壊し欧米列強に分割植民支配され、各地で軍閥が割拠する地獄の近現代史を歩む事になる。しかし、そんな地獄を経てもまた中国は再び統一される。しかも、清朝の最大領域をほぼ受け継ぐ形で。同じく地獄の近現代史を歩み、中国と同じ大文明を築き、現在ではBRICSの一角を成すインドは、最大領域のムガル帝国を受け継ぐ事が出来ずに今に至る。この事からも中国の国家の統一性がかなり強靭なモノであり、世界中を見ても中国にしか当てはまらない特殊事例だという事が分かる。中国の世界観や国家観を理解するためには、何よりも上で記し続けた“空間的な広がりと時間軸の広がり”、“統一性”を頭に入れなくはいけない。これが中国を、中華思想を理解する。第一歩である。

 

 

 

引用文献

マーティン・ジェイクス著 松下幸子訳 NTT出版株式会社出版

「中国が世界をリードするとき(上)-西洋秩序の終焉と新たなグローバル秩序の始まり」2014年 3月28日 初版第一刷発行

P31 34 36

P93~P101

 

中国が世界をリードするとき・上:西洋世界の終焉と新たなグローバル秩序の始まり

中国が世界をリードするとき・上:西洋世界の終焉と新たなグローバル秩序の始まり

 

 

 

 

 

 

 

 

ウルリケ・ヘルマン著 猪俣和夫訳「資本の世界史」太田出版 

2015年10月27日 第一刷発行

2015年11月13日 第二刷発行

P26~28 30 33

P298 Dabringhaus 2006年S,14ff参照

 

 

資本の世界史 資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか (atプラス叢書12)

資本の世界史 資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか (atプラス叢書12)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

鶴間和幸著 株式会社講談社発行 

「中国の歴史 03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国

2004年11月10日第一刷発行 P216~223

 

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)

 

 

 

 

 

 

 

 

引用VTR NHKスペシャル 2015年11月7日 151107

【アジア巨大遺跡 第3集 中国 始皇帝陵と兵馬俑

NHKスペシャル <アジア巨大遺跡> 第3集 「地下に眠る皇帝の野望 ~中国 始皇帝陵と兵馬俑~」 – @動画

 

フランシス・フクヤマ氏の証言はここから引用

 

 

 

 

VTRは以下のモノも参照。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

www.youtube.com