北東アジアを考えよう!

北東アジア(日中韓台朝)をメインに、ユーラシアを包括的に捉えよう。 

新疆をぶち壊す漢人はどういう人でどこから来ているのか?

新疆ウイグル自治区に行ってました。

 

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 2018年の7月18日から22日まで新疆ウイグル自治区に行ってました。昨今色々と話題な場所ですが、本場のウイグル料理に舌鼓を打ったり、独特な歴史を歩んだスポットを巡ったり有意義な旅でした。今回の記事はそこで感じた違和感からマスコミで報じない新疆のある側面を探ってみたいと思います。

 

 

ウルムチで感じた違和感

 

 ウルムチ市内を歩いていてある違和感を感じました。なんとなく

「聞こえてくる漢語が統一されていない」「掴み所がないように感じた」のです。少数民族自治区なんだから当然だ。と思うかもしれませんがそうではありません。漢人の会話に全く統一感がない街角から様々な特徴を持った漢語が聞こえてくるのです。直前に、広州から昆明成都と中国のメジャーな都市を回っていたので、なおさらこの違和感を感じてしまいました。また、正直に言うと漢民族が田舎くさいのです。少し前に話題になった爆買い中国人の雰囲気といいますか、少し前の2000年代初頭の中国の都市住人のふるまいっぽいのです。

 ウルムチからトルファンに向かうバスターミナルで見た光景がなおさらそう判断させました。漢人のオジサンがマッサージチェアに座っていたのですが、そこを掃除するウイグル人の清掃員がどかそうと「スイマセン、ちょっとどかしますよ~」と言ったらそのオジサンが激高して「俺は金を払ってマッサージを受けているんだ!!」ど怒鳴り散らかすのです。

 

   いくら新疆ウイグル自治区といっても省都の住人のマナーがこれ?

 

衝撃でした。

 

新疆の漢人はいったいどういう人たちなんだろう?

内地はどこから来た人なんだろう?

もしかして、これが分かると少しくらいは新疆を巡る問題を理解できるのではないか?

 

 

 

新疆に流入する漢人の正体

 

 新疆への漢人流入には主に三つのピークがあると言われています。第一のピークは1949年から61年。退役軍人や政府派遣、青壮年の移住や自主移民などが主です。第二のピークは1964年から80年。途中に「文革終了」と「下放青年の原籍への帰還」「改革開放」があり、新疆から流出する人口も一時的に増えた時期でもあったようです。第三のピークは1990年以降に訪れますこの時期にどうやら内地から約200万人の大工や左官、修理工、裁縫、靴職人が新疆に流入したようです。西部大開発も忘れてはならない要素でしょう。

 その他の要素として中国政府の新疆に対する様々な“優遇措置や援助政策”も見ておく必要があると思います。その中には「対口支援」というモノがあります。これは中央政府の各官庁や地方政府が援助する地区などを指定し「一対一」で支援する制度です。この制度は1979年に提起され、当初は江蘇省を中心にした計画だったようです。それから97年北京、天津、上海、山東、江蘇、浙江、江西、河南から200人の関係者が派遣されました。

 

 

 

どこからどういう人が新疆に流入するのか?

 

 2015年に新疆大学人口研究所が出した論文によると、新疆に流入する漢人は主に長江、黄河流域の経済が比較的発展し、人口密度が高く自然資源があまり豊富ではない省の農村から主に流入するようです。主に。四川、河南、江蘇、山東、浙江、甘粛、陕西から流入してくるようです。さらに、それらの省の比較的若くスキルを持った人たちみたいです。そうした人は内地では「余剰労働力」になるような人たちです。

 

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 ウルムチで見つけた、浙江省義烏の生活雑貨を扱う市場

 

 

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温州もまた浙江省の地名

 

 

 

 

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「边疆宾馆」にあった看板。北京、広州、深セン、義烏の品物をウルムチに。そこからカザフスタンやロシアへ。

 

 

 これは想像ですが、こうした人たちが大量に新疆に流入する事によって、競争が激しくなり土地や住宅価格の上昇を招き、ただでさえ漢人の商習慣についていけてない少数民族ドロップアウトしてしまう。しかも流入している漢人たちは差別意識があるわけではなく(差別や無知を自覚していないからタチが悪い)純粋に食べていくために新疆にいるわけなので、より問題がこじれるのではないかと思います。

 

 

 

新疆の問題は、民族間のナショナリズムの問題であると同時に、中国政府の雇用政策と産業転換政策の失敗が凝縮された結果ではないか?そんな事を思ってしまいました。

 

 

 

 ※引用論文

 

北海商科大学論文集 第六巻第一号 2017年2月17日受理

新疆ウイグル自治区の経済構造ー国家と市場と多民族のトリレンマ

石原享一 P31~33, P53~54

http://hokuga.hgu.jp/dspace/bitstream/123456789/3190/3/6-2.pdf

 

 

新疆大学人口研究所 新疆公安庁 830000  2015年1月26日アップロード

新疆流動人口分析 

任強 原新 馬紅梅

https://wenku.baidu.com/view/e71a70b45fbfc77da369b16d.html

中国の対外援助その実情

中国の対外援助その実情

 

 中国の途上国支援、「一帯一路」に関して様々な都市伝説が流れる事があります。「インフラ整備に囚人を使っている」「債務の罠で途上国を中国依存させている」「中国の支援はどこにも歓迎されていない。日米の圧勝」などなど。プロジェクトの規模の大きさや中国独自の展開力の速さもあって、誰も何も追いつけていないのが実情だと思います。しかし「中国の対外援助」に関して、ここ数年でまとまった報告が上がってくるようになりました。その中にあるオープンデータベースを本記事で紹介しながら、「中国の対外援助」に関して、一つ標準となるモノを提示したいと思います。

 

 

 

Aid Data(エイド・データ)

 

 アメリカのウィリアム・マリー研究所とその関連組織を筆頭に、国連大学シンガポール教育省などの国際機関なども調査に協力した「中国の対外援助」に関するデータがインターネット上に公開されています。このデータベースは2000年から2014年まで、140の国と地域で中国によって行われた4300件のプロジェクトのデータを収集し、それをグラフや地図に落とし込んでいるデータベースです。以下がリンクです。

 https://www.aiddata.org/china-official-finance

 

 

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以上のようにAid Dataの公開データを見ますと、具体的に中国がどの国にどのようなプロジェクトをどういう融資で実行していたかが一目瞭然です。

 

 

 

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ちなみに、こちらがどのプロジェクトが「債務」による資金調達か?を表した地図です。噂通り、「債務の罠」を世界中で展開している事が分かります。しかし、国よっては必ずしも「債務」の形で資金調達しているわけでもない事が分かると思います。

 

中国の対外援助=交通インフラ整備??

 

 「中国の対外援助」というと「交通インフラ整備」のイメージが強いと思います。ですが、これも世界規模で見るとそうとも限らない様子が見えます。

 

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東南アジアを見ると、ベトナム北部とカンボジアラオスなどは交通網の整備を主に手掛けていますが・・・

 

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東アフリカ、タンザニアルワンダなどでは「コミュニケーション」、通信基地局などを中国が手掛けている事が分かると思います。あと見逃せないのが黄色と水色で示された「燃料輸送網・パイプライン」に関わるプロジェクトでしょうか?

 

 

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こちらは、どの項目に中国が注力しているかを示した図です。こちらを見ると、確かに運送に関わる交通インフラにかなり力を入れている事が分かると思いますが、資源に関するプロジェクトに力を入れている事が分かります。中国の対外援助に「資源の持続的確保」があるのは確実というわけです。

 

 

 

すでにアメリカを抜いている「中国の対外援助」??

 

 

 

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中国の対外援助の総額は実を言うとリーマンショックからすでにアメリカを抜いています。

 

 

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 この中国の対外援助ですが、2014年までのデータで一般的に知られたODA(政府開発援助)の形式ではなくOOF(その他の政府資金)が圧倒的にメインです。これは、中国の対外援助が純粋な「開発援助」ではなく「ビジネス」や「貿易」との兼ね合いである事の証拠だと思います。

 

中国の対外援助の「ビジネスミックス戦略」に関して過去ののブログ記事を参考。

syuturumu.hatenablog.com

 

 

ODAとOOFに関しては日本の財務省の定義に則ります

以下を参考にしました。

 

www.mof.go.jp

 

 ODAとOOFについて 

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/oda_2/dai4/siryou5.pdf#search=%27ODA%E3%81%A8OOF%27

 

 

 

 

いかがでしょうか?データが2000年から2014年という事ですでに古くなりつつありますが、一つの基準になると思います。この分野に興味ある方は実際にご自身でアクセスして色々と覗いてみてください。

 

 

 

広東省広州のリトルアフリカ、小北を行く

君は中国のアフリカを知っているか!?

 

 広東省広州、小北という地下鉄駅付近一帯。アフリカや中東の人が集まり独特の街並みを形成しているエリアが存在しています。その街並みから「リトルアフリカ」や「チョコレートタウン」という俗称で呼ばれる事もあります。以下はその周囲の写真です。私が2018年7月5日と7月8日の二回に分けて訪れた時の写真です。

 

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 極彩色のアフリカ風衣装をまとった婦人

 

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頭でモノを運ぶアフリカの婦人

 

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目立つ「アフリカンフード」の表記

 

いかがでしょうか?この三枚はいずれも中国の広東省広州の景色です。

 

 

このリトルアフリカは近年、日本の中国研究者やノンフィクションライターなど様々な人による報告や分析が挙がっている場所で、ある意味「中国のグローバル化の最前線」「中国とアフリカ関係の一番アツい現場」と言っても過言ではないそんな場所です。そんな場所なので様々な専門家の方が著作で言及されています。以下はその参考です。

 

さいはての中国 (小学館新書)

さいはての中国 (小学館新書)

 

 

 

 

アジアで出会ったアフリカ人―タンザニア人交易人の移動とコミュニティ

アジアで出会ったアフリカ人―タンザニア人交易人の移動とコミュニティ

 

 

 

アフリカ感の濃度は義烏以上

 

 中国でアフリカ人が多く集まっている街に浙江省の義烏という場所があります。そこは世界の生活雑貨市場という事で、アフリカ人のみならず中央アジアや東欧や東南アジアの方もいます。なので「アフリカ感の濃度」でいうと相対的に薄まっていると個人的に感じています。ですが、広東省のリトルアフリカがよりアフリカや中東に特化している印象で、「アフリカ感の濃度」でいうと広東省のリトルアフリカの方が上です。更に密集した建物が形成する薄暗い狭い路地にアフリカっぽい極彩色の衣装をまとった人が行き交うので、そのギャップがまた独特の雰囲気を街にもたらしているように感じました。個人的に映画『ブラック・パンサー』の続編のロケ地にここを推薦したいです。

 

 

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 2018年7月8日撮影 現地の小学校の制服を着たアフリカ人の親子。子供のほうが中国語で習った歌を流暢に歌いながら道を歩いていた。他にも流暢な中国語で中国人とコミュニケーションをとるアフリカ人の子供を見た。

 

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なぜ?ここに集うようになったか?

 

 広東省広州はもともと国際的に開かれた場所で、古来より海のシルクロードでアラブ世界との繋がりもありました。そのため、中国の最古のモスクがあったりチャイナムスリムも比較的多く住んでいます。リトルアフリカの周辺にも回族ウイグル族が経営しているレストランや精肉店が多数点在していました。文化的にアフリカやアラブ世界の住人にとってハードルが低い土地と言えるかもしれません。

 しかし、直接的な原因は1997年のアジア通貨危機と言われています。東南アジアや香港で商売していたアフリカ人などがその影響を受け、中国本土に移ってきたのが現在のリトルアフリカの形成の始まりのようです。その後、中国経済の順調な成長や中国・アフリカ関係の発展などが追い風となり、アフリカや中東の人々が集まり形成されたのが今日の広東省広州小北のリトルアフリカです。

 

 

 

以下は参考記事

記事ではリトルアフリカのアフリカ人のビジネスの様子や

街がどのように形成され今日に至るか解説されている。

 

非洲人在广州:跨国“倒爷”的淘金梦

https://www.huxiu.com/article/261559.html

 

 

 

 

 

 

成昆鉄道とタンザン鉄道 東アジアとアフリカの技術転移

中国・アフリカ友好の象徴

 

  中国とアフリカの関係を勉強していると必ずといっていいほど「タンザン鉄道」の存在が言及されます。タンザン鉄道とは1970年から1976年にかけて中国がタンザニアザンビアの間に敷いた鉄道です。

 

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あの時代、中国も文革期で決して豊かな国ではありませんでした。それに加え国際社会での立場も厳しいモノでした。ではなぜそんな国があの時代にアフリカ援助を行ったのか?そもそも援助できるだけの技術水準があったのか?今回の記事はそんな疑問をタンザン鉄道にかんする学術研究論文を引用して解き明かしたいと思います。

 

 

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中国の鉄道史

 

 中国の鉄道技術の発展には意外な歴史があります。西欧列強などに反植民地化される過程で様々な鉄道技術が伝わっています。第二次世界大戦終戦し中国が建国され朝鮮戦争を経たあたりから中国はソ連から技術的な援助をうけます。1952年に中国建国初の鉄道「成渝铁路」が開通されます。この鉄道は四川省成都重慶を結ぶ鉄道です。その後、中国は着々と鉄道を整備していきます。1960年代後半に入り、中国は西南”三銭”に次々と鉄道を整備していきます。その結果、1970年成都昆明を結ぶ完全中国国産の成昆鉄道が開通されます。

 これらの経験があったので中国は「タンザン鉄道」を建設できたのです!

 

※引用

成昆鉄道bot@圧倒的三線力 on Twitter: "「…成昆線は中国が自ら設計し建設した…自らの技術力を用いた第一本目の非電化鉄道であり…新中国の大規模な鉄道建設の中で…我が国の鉄道従事者は豊富な経験を蓄積し厳しい試練に耐えられるよう鍛えられた…」(『聊城大學學報社會科學版』2007年第1期「對中國援助坦贊鐵路的歷史考察」)"

 

 

 

 

成昆鉄道とタンザン鉄道

 

 事実としてタンザン鉄道には成昆鉄道の建設に関わった人員が多数参加したようです。タンザン鉄道建設への人員選抜では成昆鉄道建設に関わった第二鉄路局のスタッフがかなり選抜されたようで、合計204人の成昆鉄道に関わった人員がタンザン鉄道建設にも派遣されました。その他にも朝鮮戦争第三鉄路局の人員も参加しました。つまり成昆鉄道とタンザン鉄道は兄弟のような関係なのです。

 

 

タンザン鉄道珍道中

 

 このタンザン鉄道建設の過程で中国人スタッフは様々な経験を積みます。彼らは広州から香港に入り東南アジアを経てアフリカへ旅立ちます。香港やシンガポールを見て中国本土との経済格差を実感したりしました。そのシンガポールではソ連の船籍と対峙し緊張する場面に遭遇したりもして、世界情勢の中の中国の位置を感じさせたりしたようです。

 またアフリカでいざ鉄道修理に取り掛かろうとするときにも様々な困難と挑戦がありました。中国人スタッフはこのアフリカ鉄道援助珍道中のさなかイギリスや日本の機械を修理したりしながら様々な技術的経験を積んだようです。

 

 

これらの事から先進国⇔中国⇔アフリカで技術転移が発生した事が考えられないでしょうか。

 

 

余談になりますが、雲南鉄道博物館には日本の川崎造船が作った機関車が現在も所蔵されています。個人的な予想の域を出ませんが成昆鉄道からタンザン鉄道敷設には日本の鉄道技術も大きな役割を果たしたのではないか?と考えています。

www.asahi.com

 

 

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2019年7月14日 筆者撮影

 

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 解説には1958年から1985年まで雲南鉄道で運営されていたとある。

 

 

 

 

 

 

 

引用論文

赶在时间的前面:坦赞铁路修建期间的施工和现代化问题

蒙洁梅 (Jamie Monson)

美国卡尔顿大学(Carleton Coolege)

全克林 译 

P56-57  P66

 

 

 

余談

先進国から中国への技術転移に関して。

 

過去NHKでも放送された「レッドチルドレン」の存在が参考になると思います。

毛沢東の理想に共感した欧州人などが中国に来て都市建設などに貢献した事が語られます。


洋レッドチルドレン-中国・革命の後継者たち

 

日本語で読めるタンザン鉄道に関する文章は以下の書籍に収録

 

フロンティアと国際社会の中国文化大革命 ― いまなお中国と世界を呪縛する50年前の歴史

フロンティアと国際社会の中国文化大革命 ― いまなお中国と世界を呪縛する50年前の歴史

  • 作者: 楊海英、谷川真一、ハラバル、ハスチムガ、劉燕子、,馬場公彦、ウスビ・サコ、福岡愛子、上利博規、細谷広美,楊海英(YANG Haiying)
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 P189 第7章

文化大革命期における中国援助とアフリカ外交の役割

ウスビ・サコ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

偉大なるチョソンの威光はアフリカへ!!!

北朝鮮の緻密な世界戦略

 

 北朝鮮と聞くと大半の日本人は「閉ざされた国」「世界から隔絶された収容所国家」というイメージを持つと思います。ですが実際は社会主義陣営の国家などとは国交があります。以下は参考ですが北朝鮮の主要輸入国のデータです。

 

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https://atlas.media.mit.edu/en/profile/country/prk/

 

英語ウィキペディア北朝鮮の外交関係」

https://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_relations_of_North_Korea 

 

 

 中国が主要な相手ではあるものの意外と様々な国と貿易をしている様子がうかがえます。

 

 

今回のテーマは北朝鮮がいかに「主体的」に動いたか、その中でアフリカや第三世界とどのように関係を構築したか?その一端を覗きたいと思います。

 

 

中国から逃げた北朝鮮

 

  中国とソ連の関係が悪化し本格的な武力衝突に発展したタイミングで北朝鮮は独自の外交を方針を模索し始めました。まさに“主体”的に動いたのです。

 1969年。中国とソ連の間で国境紛争が発生した年、アフリカのマリに最初の北朝鮮イデオロギー思想である主体思想(チュチェ)思想研究グループが生まれます。その後、70年代にかけてチュチェ思想研究の組織はアジアとアフリカで増え続け70年代末には800以上の研究組織が立ち上がります。この70年代は中国にとって対米関係の修復とイデオロギーの調整のタイミングです。これもまた北朝鮮が独自の対外政策に向く大きな原因になります。

 

 

 

第三世界に進出する北朝鮮

 

  中国とアメリカの関係が改善し改革開放にいたる過程で中国はイデオロギーの調整を行い、「革命の輸出」が下火になっていきます。それと反比例するかのように北朝鮮は積極的に第三世界にアプローチしていきます。1974年、金日成平壌市内で以下のように語ります。

 

「今日、世界人民がチュチェ思想の道に沿って前進する事は、阻むことのできない時代の流れになっている。(中略)アジア、アフリカ、ラテンアメリ諸国および世界のすべての国の人民は、小国や貧しい国を問わず、緊密に団結し、帝国主義者に息抜きの機会を与えず、至る所でそれに力強い打撃を与え、強大な圧力を加えることさえできれば、帝国主義を滅ぼし、革命の最終的勝利を勝ち取ることができる」。

 

 北朝鮮は中国の主導的影響力を振り切り様々なかたちで「第三世界の反米闘争」を支援していきます。ベトナムへの軍事支援、アンゴラ内戦への介入などなど。

 その過程でアフリカへの外交活動は一時期の中国をしのぐ勢いを見せました。70年代末までに北朝鮮はアフリカ諸国に1500人あまりの軍事顧問を派遣し、ほかに21のアフリカ諸国に3億ドル近くの経済援助を行いました。この成果か、ジンバブエで独立解放闘争を指導したムガベが最初に訪問したのは北朝鮮でした。

 

 

アフリカを対北朝鮮戦略のテコに! 

 

 日本外交的に北朝鮮は最大の脅威の一つです。ですが実質的にうまく関われていないのが実情です。北朝鮮は現在でもアフリカと関係があります。日本は対アフリカ外交を北朝鮮問題解決のテコにするべきだと思います。

 

news.yahoo.co.jp

 

 

CNN

Statues and ammunition :North Korea's Africa Connections

https://edition.cnn.com/2017/10/22/africa/north-korea-africa/index.html

 

 

 

 

 

 

 

 

北朝鮮とアフリカの関係を考える参考

 

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東アフリカ、スワヒリ海岸地区の東アジア武術伝播の系譜

 

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 80年代はじめその中でザンジバルの兵士が北朝鮮から派遣された軍人から訓練を受けた。

 

 The Origins of North Korea-Vietnam solidarity: The Vietnam war and The DPRK

https://www.wilsoncenter.org/publication/the-origins-north-korea-vietnam-solidarity-the-vietnam-war-and-the-dprk

 

北朝鮮ベトナムの連帯の起源。ベトナム戦争北朝鮮

ウィルソン国際冷戦史研究センター

 

 

 

 

 

引用 書籍

 

最後の「天朝」――毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮(下)

最後の「天朝」――毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮(下)

 

 P237-P238 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘッポコなソ連の第三世界戦略

ソ連第三世界戦略

 

 「中国と第三世界」を学んでいますと、その過程で色々な意外な歴史などを勉強する事になります。中国が第三世界へのアプローチを強化したきっかけとして「中国とソ連の関係悪化」があります。なので、ソ連に関する論文なども見る事もあります。ここでは、「ソ連第三世界戦略」に関する研究論文を翻訳編集してみたいと思います。

 

 

ソ連第三世界戦略は圧倒的不利な状況から始まった

 

 ソ連アメリカは冷戦期に世界覇権を争っていたと言われていますが、その一番最初はとてもお粗末なモノでした。ソ連が1955年から1957年に国連を通じて途上国に派遣したアジア・アフリカの専門家はわずか48名でした。同時期のアメリカの専門家は924名イギリスは1143名フランスは683名でした。また1959年にソ連が派遣した352名の専門家のうち三分の二が外国語を使えませんでした。それでもソ連第三世界に対して接近を試みます。初期のソ連の主な援助対象はアフガニスタンアラブ首長国連邦インドイランギニアスリランカキューバエチオピア、マリ、パキスタンでした。

 国内のアジア・アフリカ研究に関する機構も再編を行いました。それらの組織は当然ソ連共産党と密接なかかわりがあり、各国の左翼政党との関係構築に貢献する事になります。また、こうした研究機関の刊行物やメディア環境も整えられ、1961年の末ごろになると様々なアジア・アフリカ言語でプロパガンダを発信できるようになりました。ソ連世界革命を率いる国家として自身を宣伝しようとしていました。しかしアフリカ国家からは「工業化した白人帝国国家」つまり植民地国家と見られていたようです。終戦直後のアフリカは白人を一切、信用していなかったようです。

  こうした不信感はソ連で軍事訓練を受けていたアフリカ人の経験も相まって強化されます。ジョージアのトリビシでアフリカ人に対するヘイトクライムヘイトスピーチが記録されています。

 こうしたところに中国が入り込むスキがあったわけです!

 

 

中国の挑戦

 

 中国も建国の最初期からアジア・アフリカの国に援助を行っていました。そして中ソ関係の雲行きが怪しくなるにつれて、ソ連も中国のアジア・アフリカへの外交を注視し始めます。当時、中国は無利子貸し付けによる援助の方式をとっていました。中国は当時まだ世界最貧国で場合によってはレシピエントよりも生活の質が低い状況だったので、ソ連の専門家は警戒感もありつつイマイチ評価が定まらなかったようです。

 しかし、それもソ連のアフリカ大使館からの具体的な報告で評価が変わってきます。1962年1月RIAノーボスチの社員によるかなり「中国はアフリカで大使館や領事館、貿易団を通じ廉価毛沢東主義の宣伝冊子を流通させている」」という報告が上がりますこうした要旨の報告は1963年から1964年にかけて増加していきますアルジェリアを旅行したロシアの共産党機関紙ジャーナリストの報告でも、「中国のプロパガンダアルジェリアのいたるところで見られる。ソ連プロパガンダは書店でしか見らられない。しかもその書店の中央に置かれていたのは中国のプロパガンダ冊子だ」と報告されています。

 これらの積み立ての成果は今日では言うには及ばないと思います。

 

ja.wikipedia.org

 

 

 

参考統計

 

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 ソ連社会主義陣営および発展途上国に対する援助総額

 

 

 

 

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 ソ連のアジア・アフリカにたいする自動車輸出総額

赤いアンダーラインがアフリカを意味する

 

 

 

 

 

 

 

その他、参考文献

 

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ソ連第三世界での成功と失敗。

 

 

 

※引用

 

冷戦国際史研究9 華東師範大学冷戦史研究センター

世界知識出版社

 

60年代苏联的发展中世界的政策与中国的挑战

杰里米·弗赖德曼(Jreremy Friedman)

美国普林斯顿大学(Princeton University) アメリプリンストン大学

www.readbooks.cc

中国の対外援助のルーツ

そもそも「対外援助」とは?

 

 このブログでは過去にも「中国のアフリカ支援」「中国の対外援助」といったテーマの記事を書いてきましたが、そもそも「対外援助」という概念について確認していない事に気付いてしまいました。そこでまずは「対外援助」というモノがどういう風に発生していったかを簡単に確認したいと思います。 



 

「対外援助」は非常に”ウチ”的な理由から

形成されていった

 

 「対外援助」はその発生と形成が異なるルートが何本か存在しています。以下はその代表的なモデルです。

 

フランスイギリスポスト植民地政策としての対外援助

アメリ第二次世界大戦時の連合国への戦争協力および戦後復興・反共産主義政策

 

 植民地が解体される過程で、国内の「植民地省」の人員が新設の「技術協力省」に移りその予算が「対外援助」になりました。しかし、植民地が解体されたからといって即座に人員を引きあげる事なども出来なかったので、実をいうと最初期の「対外援助」のうちの「技術協力予算」は旧植民地官吏に対する給与の支払いが主だったようです。

 アメリカの「対外援助」も非常にドメスティックな理由から形成されていきました。そのルーツは武器貸与法にあるとされます。この法律は武器以外の戦争遂行に必要な物資を総合的に援助するものでしたその後、終戦を迎えそれを継続していくか?が議論になりました。それがトルーマンドクトリンとなりマーシャルプランへと移っていきます。アメリカにはもう一つ、1954年に制定された農業貿易開発援助法という法律が「対外援助」のルーツとして存在しています。名称からも察せられると思いますが、この法律は「アメリカ産農産物の輸出市場の開拓と拡大」が目的にありました。

 「対外援助」や「開発援助」、「国際協力」といったモノの始まりは人権や自由を理念に掲げる欧米ですら非常にドメスティックなモノだったのです!では中国はどうか?というと当然中国も中国の国益、ドメスティックな事情から始まっています。

 

 

 

中国の対外援助のルーツ

 

 では中国の対外援助はいったいどこから始まっているか?といいますとその始まりは建国直後の50年代から言及する事ができます。中国の最初期の対外援助は1952年に成立した中国対外貿易が担っていました。またこの時期は朝鮮戦争が勃発し中国も参加します。1950年代の中国の援助の主なレシピエントは北朝鮮の他にもパキスタンベトナムカンボジア、モンゴル、ハンガリー東ドイツアルバニア、エジプト、アルジェリアキューバなどがあり、中国は援助を行っています。これらの国名と国の位置から、中国の最初期の対外援助は

 

社会主義陣営としての連携、共産党うしの連帯

地政学的な観点・安全保障のための軍事支援

 

 

が主な目的であった事がうかがえます。アフリカにもこの時点で援助は開始しているのですが、中国の対アフリカ援助が本格化し成果をあげるのはもう少し後の事なので、ここでは割愛します。

 

 ※主な目的で上の二点をあげましたが人道支援も行っています。日本も受けています

 

 

中国の対外援助の体系化と性質の変化

 

  1955年インドネシアバンドン会議が開催されます。ここでアジア・アフリカの被植民地国家どうしの連帯が謳われます。この事は中国の対外援助に大きな影響を与えます。それと同時に、冷戦の初期から中国とソ連はお互いに不信感をつのらせていたと言われています。この事も中国の「対外援助」の形成を考える上では見逃せません。中国の対外援助を担っていた対外貿易部1961年からはその役割を対外経貿聯絡総局という国務院直轄の組織に移ります。これにより全国の対外技術協力、対外貿易、そこに関わる財政の管理が一本化され、効率化されたと言われています。

 この頃は中国の対外安全保障が非常に厳しくなっている時期でした。1959年に中印紛争が勃発し1962年に入るとイリ事件(新疆ウイグル自治区からウイグル人の大量亡命事件)が発生し1969年に中ソでも国境紛争が発生します。

 この事から、中国の対外援助には「反ソ連」、「ソ連との競争」という性質が加わります。

 

※50年代末は周辺環境の悪化の他にも「大躍進政策」「人民公社」などの大量の餓死者を出した失策も無視できない。

 

 

 

 

参考書籍

 

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陈松川著  中国对外援助政策取向研究 (1950-2010)

清华大学出版社  2017年8月第一版   P57-85

www.zxhsd.com

 

 

経済大陸アフリカ (中公新書)

経済大陸アフリカ (中公新書)

 

 P154~159